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浜崎あゆみが『(miss)understood』で暴く本質

2006年1月1日発売、7枚目のオリジナル・フルアルバム。

アルバム発売前のシングルから「変化」の予兆はあった。前作『MY STORY』後、最初のシングル『STEP you / is this LOVE?』(両A面)。どちらも浜崎あゆみははじめての作曲家で、「STEP you」は原一博、「is this LOVE?」は渡辺未来。「STEP you」はどことなくダンスホールレゲエ(※1)を感じさせるナンバーで、“1.2.3.4(ワンツースリーフォー)” という軽快なコーラスが特徴的だ。次の『fairyland』も、c/w の「alterna」ではじめての作曲家を起用し(Shintaro Hagiwara, Sosaku Sasaki)、“変化を恐れるのなら 離れたとこで見ててよ” と変化を宣言するように歌っている。そして、『HEAVEN』に続いて 2005年11月、決定的なシングルが発売された。『Bold & Delicious / Pride』(両A面)だ。

(※1=これがダンスホールレゲエ?と思うかも知れないが、DJ TAKI-SHIT によるリミックス(シングル『fairyland』に収録)ではもろに「ダンスホールレゲエ」になっていて、オリジナルにあったルーツが垣間見える)

1. ヤヤヤヤ!ガガガガ!の衝撃

冒頭、いきなりの「ヤヤヤヤ!ガガガガ!ダダダダ!オオオオ!」は衝撃だった。

最初、何が起きたのかわからなかった。これが浜崎あゆみ? 当時、CM や音楽番組でこの曲を聴いた、音楽好きだがあゆファンでは全くない友達から、「驚いた。最初、浜崎あゆみってわからなかったよ。これは良いね?」というような反応を数人からもらった。CM でほんの一部分聴いただけでもインパクトがあったのだ。ファンにとっても衝撃で、「新曲聴いた? あれ何?」なんて話したのを覚えている。とにかく、今までにない、それまでの彼女のイメージを一新してしまうような曲だった。

作曲は、スウィートボックスの GEO(「Pride」も同様)。スウィートボックスはドイツの音楽ユニットで、バッハの「G線上のアリア」をサンプリングした「エヴリシング・イズ・ゴナ・ビー・オールライト」(1997年)のヒット曲が有名だが、なんでも、浜崎あゆみがスタッフに「こういうの歌ってみたいな。SWEETBOX みたいな曲、というより、本人が書いてくれるといいよね」なんて話してたら、知らない間にスタッフが GEO に話を通していて、後にデモが送られてきたらしい。それを聴いたら歌いたくてしょうがなくなってしまい、別の曲も録り終えていたが、新たに録ることにしたのだとか。(『ガールポップ』vol. 77 2006年1月号より)

とにかくファンキーで、それまで浜崎あゆみと「ファンク」はあまり結び付かなかっただろう。この曲は、『近田春夫の考えるヒット』で取り上げられた。

浜崎あゆみの冒険的な新曲にマドンナに近いセンスを見た

 とにかく今までの彼女で味わったことのない音だった。

 斬新さに風格が調和したような映像のイマジネイティヴなこともあって、何だかはじめて浜崎あゆみに “ロック” を感じたような気がしたのだ。

 曲が始まって直ぐ判ったのは、音に隙間の多いことだった。それが効いているのだ。
 ファンクロック、というのが一番近いと思うが、この音は過去のものじゃない。
 引用もあるだろうし、別に奇をてらったサウンドでもないのだが、今出来てきた、そういうものだけにある封切感とでもいおうか、なによりも新しい!! と感じさせる音響がそこにあった。
 その刺激的なトラックに対する日本語詞の音楽的な強さも曲をひとつ上等なものにするのに役立っている。
(中略)一音一音に確固たる意味があるからこそ、この冒険的なサウンドプロダクションが、今ポップな文脈に成立するのだ。

近田春夫の考えるヒット 439

また、下記のブログ(※2)では、「"ゴスペル"をもっとも上手く咀嚼して生まれた邦楽といえるのでは」と書かれている。そう、「ゴスペル」もある。
(※2=Keiさんによるブログ「イマオト - 今の音楽を追うブログ -」より)

“Bold & Delicious” というサビはバックコーラスに歌わせ、ボーカル(浜崎あゆみ)はフェイクするというスタイルも斬新だった。

また、この曲がリリースされるころ、浜崎あゆみはそれまで金髪だった髪を黒髪にしている。そんなところからも、「変わった」と思わせるに十分だった。そしてそれは、浜崎あゆみに興味がない人にも伝わった。むしろ、ファンよりも、ファンじゃない人の方が反応が良かったと記憶している。

そんなシングルの勢いのまま、一ヶ月後に発売されたのが『(miss)understood』だった。

2. 浜崎あゆみの音楽職人ぶり~CMJK とのタッグ

では、浜崎あゆみのそんな「変化」を支えているのは何か。ひとつには、GEO という “海外の作曲家” との出会いが大きいが、それとどう向き合ったのか。その “音作り” について、浜崎あゆみ本人がインタビューで答えている。

(「Bold & Delicious」について)
「デモではボーカルの JADE がひとりで声を重ねてたんだけど、それがすごくパワフルでソウルフルでファンキーでね。あ、これはもっともっと大袈裟にして、みんなでクラップしながら歌えるようなもっとハッピーなものにしたいなと思った」
「デモはもっと静かでキレイな感じだった」
「NY に滞在中、ひとりであちこち行ってたんだけど、ある教会を訪ねた時、そこのパイプオルガンの音が NY でしか鳴らない音に聞こえたのね。その時、あ、ゴスペルって思った。クラップして歌ってるようなファンキーなコーラスが欲しくなったの」
「日本語だとハマらない譜割とかもあるんで、けっこうイジッてるんだけどね」
(「Pride」について)
「この曲は、デモを聴いた瞬間、『オペラ座の怪人』にしようと思ったの」
「個人の主張というより、みんなが同じ気持ちで何かに対して叫び続けてるみたいな感じにしたかったんで、こっちにもコーラスをいっぱい入れた。コーラスというより、もっとキレイに歌う合唱団みたいな声のイメージだったから、小学生から 50代くらいまでの人を大勢集めて、みんなでガーッと歌ってもらったの」

ガールポップ vol. 77 2006年1月号

これはもう、浜崎あゆみのやってることはアレンジ(編曲)では? もしくはプロデュース。
ファンクもコーラスもゴスペルも、浜崎本人の意図だった。

「Bold & Delicious」も「Pride」もアレンジを担当しているのは CMJK で、アルバム中 6曲 が CMJK によるアレンジで最多だ。 この時期、浜崎あゆみのサウンド面を支えていた一人は間違いなく CMJK と言える(もう一人は tasuku)。支えていたというより、共にクリエイトしていたという方が近いか。先述の『近田春夫の考えるヒット』でも、CMJK の存在の大きさが指摘されている。そして近田は、CMJK にこの仕事をさせた浜崎あゆみに「マドンナに近いセンス」を見たという。(ちなみに、CMJK は元・電気グルーヴである)

アルバムの初回盤には写真集が付いていて、そこに CMJK の言葉があった。

「彼女はちゃんと自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い。ものすごいアイデアマンでもあるからね」

浜崎あゆみ『(miss)understood』初回特典写真集「on my way」

ミキサーの森元浩二も言う。

「浜崎さんの求心力ってすごいんですよ。それって、他の現場では本来プロデューサーの役割だと思うんですけど、ココではそれが彼女。今回の GEO の曲にどう日本語が乗るのかもまったく予想不可能だったけど、結果はこの通りですから。ホント、驚きますよね」

浜崎あゆみ『(miss)understood』初回特典写真集「on my way」

このように、GEO との出会い等がありながらも、浜崎あゆみの音楽的プロデュース力によって開花した変化があり、それをまた、雑誌などで語るようになった。あるいは、語れるようになったということか。前作『MY STORY』で自身の方向性を一度確立できたからこそ、開いた扉があるのだろう。

3. 浜崎あゆみの「洋楽志向」とは?

それでは、何が大きく変わったのかというと、「洋楽への意識」が露わになったことだ。GEO という海外の作曲家が参加していることもあるが、それよりも、どことなく「世界の歌姫」っぽいというか、「セレブ」なんて言葉が流行りだしたのもこのころだったか。浜崎あゆみが世界の歌姫?冗談はよしてくれ!と思うかも知れないが、実際に世界で売れてるかどうかではなく、あくまで雰囲気であり意識の話だ。マドンナやブリトニー・スピアーズ、ビヨンセなど海外アーティストからの “パクリ” を指摘されるのが目立つようになったのもこのころだったと思う。つまり、「洋楽を意識している」ということで、それを隠さなくなったというか、逆に打ち出してきた感がある。

例えば、「fairyland」の MV は、過去最高の制作費、2億4千万がかけられている。

どんどん大規模で派手になってきていて、まるで本当に「世界の歌姫」かのようだ。しかし実際は、(この時点では)海外でツアーをしてるわけでも、海外進出してるわけでもない。言ってみれば、雰囲気は「世界の歌姫」だが中身は伴ってない(変わってない)状態だ。

2014年ごろか、「ネイティブイングリッシュを話し、アメリカ進出に挑んだ宇多田ヒカルと、英語を勉強し、アメリカでの成功を掴もうとした松田聖子と、白人と結婚し、アメリカに家を建てただけの浜崎あゆみ」というツイートを読んだことがある。浜崎あゆみの「世界の歌姫ぶり」というか「洋楽志向」はここにあると私は思っている。宇多田ヒカルとも、松田聖子とも違う、「洋楽志向」。

確かに GEO 提供曲を歌い、「洋楽」に接近した浜崎あゆみだが、洋楽へのコンプレックスというものが感じられない。宇多田ヒカルや松田聖子のように、海外進出に挑もうとする姿勢も感じられない。挑むも何も、「ここが世界だし」というくらいのふてぶてしさを感じる。これは、従来の「洋楽志向」からしたら、厚顔無恥に映るだろうか。しかし、「海外進出に挑む」という姿勢自体がある種の分断を孕んでいる。自ら分断を作ってしまうというか。

そういう中で、浜崎あゆみのふてぶてしさは、私には清々しく、また、鮮烈に映った。海外進出に挑む気持ちがないといっても、その音には全力で挑んでいるのがわかる。前述の通り、GEO から送られてきたトラック…それまでの J-POP や歌謡曲とは違うリズムやメロディに、日本語を乗せるのに四苦八苦している。洋楽と邦楽の違いというものがあるならば、それを体で感じ、まさに洋楽に体当たりしている。

「Bold & Delicious」のようなトラックに、“思慮深く遠慮深くとか正直面倒クサイ” とか “やらぬ悔いならやった悔いがいい” といった「ど日本語」を乗せてしまう浜崎あゆみのセンスと歌唱に、私は脱帽した。
「Ladies Night」、この曲も GEO作曲だが、ラップというかナレーションみたいなところによくこんな日本語を乗せられたなと思う。(この曲もはじめて聴いたとき、「これがあゆ?」と度肝を抜かれた)

この浜崎あゆみの「日本語を乗せるセンス」は特筆すべきと思うが、述べてきたように、洋楽へのコンプレックスでも挑戦でもなく、その音に全力で挑むこと。「世界の歌姫でもないのに、世界の歌姫気取りか!」と思われるかも知れないが、私にはそここそが痛快で、実際、NY でレコーディングしたり、海外の音楽家と制作したり、そこがどこで誰とであっても、「ここは世界だし」と、世界を全力で感じている浜崎あゆみが眩しかった。浜崎あゆみは世界を知っていたし、知らない世界があることを知っていた。
その「世界の歌姫ぶり」はかえって、そのふてぶてしさとは裏腹に、世界を知ろうとするピュアな探求心を感じさせた。

そして、その「洋楽志向」によって何が見えたか。GEO 提供曲は 6曲あり、6曲すべてスウィートボックスによるセルフカバーがある(それもすごい話と思うが)。2006年の『アディクテッド』に 5曲、2008年の『レア・トラックス』に 1曲収録されていて、Spotify には配信されてない曲もあるようで、1曲だけ貼ると、

“浜崎あゆみの方がイッちゃってる”

素直にそう思った。例えば、「Bold & Delicious」なら、音の隙間の取り方といい、歌の間の取り方といい、コーラスといい、あゆの方がよりファンキーでソウルフルだし、「Pride」の荘厳さや重厚さや迫力、「Ladies Night」のコミカルかつ狂気を感じるビート、ナレーションのようなラップからキャッチーなコーラスへと展開していくときの強引さからくるグルーヴ、電話の音での終わり方など、すべてが圧倒的。

それで気付いた。浜崎あゆみがやってることは、その曲のルーツや根源にあるものを掘り下げることではないかと。それも、人から提供された曲でありながら、その当人よりも、そのルーツや根源にあるものを掘り下げてしまっている(「Bold & Delicious」のデモはもっと静かでキレイだったという)。それで思ったのだ。

浜崎あゆみは本質を暴いていくアーティストなんだ。

スウィートボックスと浜崎あゆみを聴き比べて、あゆの方が良いと感じるのなら、それは何故なのか。それを考えることは、日本語のロック(J-POP でも歌謡曲でも邦楽でもいい)にできることは何なのか?という本質的な問いでもあり、浜崎あゆみは私にそれを考えさせたアーティストだった。

4. あゆが明るくなった?(そもそも暗かったのか?)

もうひとつの変化として、歌詞というか、明るくなったというのがある。冒頭いきなり「ヤヤヤヤ!ガガガガ!」だし、続く「STEP you」も「ワンツースリーフォー」だし、次の「Ladies Night」ではガールズトークの狂騒をコミカルに演じてるし、あの「絶望三部作」の、孤独を歌っていた、“暗い” あゆはどこに?

しかし私が思うのは、浜崎あゆみはそもそも暗かったのか?ということである。ここに私は「世代の断絶」を感じている。私はいわゆる「あゆ世代」ではない。「あゆ世代」というと、「絶望三部作」と言われた『vogue』『Far away』『SEASONS』のシングルが発売された 2000年に中学生くらいの世代だろうか。昭和の終わりか平成の始まり生まれである。だとすると、私は「あゆ世代」ではない(それより上)。

だからなのか、私は浜崎あゆみが歌う「絶望」や「孤独」を本当か?と冷めた目で見ていた。それどころか、嘘ついてるんじゃないよという感じで嫌っていたんだと思う。それよりも、Cocco や椎名林檎が歌う絶望や痛みがホンモノだったし、浜崎あゆみはニセモノだった。だからいまだに、「あゆに救われた」という「あゆ世代」とは断絶があるような気がしている。しかし、本当に断絶しているのか?

私が浜崎あゆみの「絶望」や「孤独」を本当に思えなかったのは、例えば、CM等で見せるユーモラスなところやトークのときに感じる不敵さだったり、本人が持ってるしたたかさや明るさが「本当は明るいんじゃないの?」と思わせたからだ。「「陽性」で「社交的」で「健康的」なポップ・アイコンとしての新しい仮面」と宇野維正は書いたが、浜崎あゆみはもともと「陽性」で「健康的」だったんじゃないのか?と。

今思えば、私はそれ(浜崎あゆみの明るさ)が見たかったんだと思う。浜崎あゆみが歌う「絶望」や「孤独」が嘘に思えたのではなく、確かに「絶望」や「孤独」は存在するが、同時に、それを乗り越える強さ、乗り越えられなくてもそれを抱えたまま生きていく強さ、時にはそれを笑い飛ばすユーモアや突き放せる力を感じていたからこそ、その明るさをもっと見せて欲しいと思っていたんだと思う。
浜崎あゆみは確かに「居場所がなかった」と歌った。しかし、それが「過去形」で歌われていたことにこそ私は注目したいと思っていたのだ。

つまり私は、浜崎あゆみに自身の「化けの皮」を剥ぎ取って欲しいと思っていながら、私自身の「化けの皮」も剥がして欲しいと思っていたのかも知れない。Cocco の「絶望」は確かにホンモノだろう。しかし、「絶望」を抱えながらもたくましく生きてしまっている自分もまたここにいるのだ。私はそれを浜崎あゆみに暴いて欲しかった。浜崎あゆみこそ、それを暴けるのではないかと期待していた。逆に言えば、暴かれたくなかったから嫌っていたのだ。

だから私は、この「明るさ」が嬉しかった。「あゆ世代」はとまどったかも知れない。しかし、その「暗さ」があゆ世代を救ったように、その「明るさ」が私を救った。だから、その「暗さ」も「明るさ」も同じところにあると私は思っている。

5. 理解と誤解~浜崎あゆみのバランス感覚

しかし、ただ明るくなったのではなく、明るくなった一方で、ヘヴィーになった。「Pride」はクラシックやオペラを感じさせ、これまでにない重厚さ、「criminal」なんて浜崎あゆみ史上もっとも重く深く暗い曲ではないだろうか。一体この重さは何なのだろうか。

“変化を恐れるのなら 離れたとこで見ててよ” と突き放す歌詞が印象的な「alterna」だが、“何かしたってしなくったって 結局指さされるなら” と、自分を「指さされる」存在として歌っているのが気になる。何より、この MV が、歌手を夢見た少女が操り人形となり、自分のコピーを大量生産され、消費され、シンギングマシンとなり、使い捨てられる…という内容になっているのだが、これは皮肉であり批評であり自虐でもある。
(これはビョークの「バチェラレット」の MV と同じことを言ってるのでは?と私は感じたのだが、その「バチェラレット」の MV にはなんと「MY STORY」というワードが出てくる)

このころから浜崎あゆみの歌詞には「自虐」が出てくる。個人としてではなく、アーティストである浜崎あゆみを自覚的かつ客観的に捉えたうえでの「自虐」だ。自分を指さしたり、好奇の目で見る世間をあきらかに意識しているし、そう見られる自分も意識している。これは彼女が「浜崎あゆみ」に自覚的かつ客観的になったという証でもあるが、浜崎あゆみが「個人」から「団体名」になっていく過程のようにも思える。背負うものが大きくなった。だから、ヘヴィーなのである。

浜崎あゆみは巨大なプロジェクトになってしまった。そんな中でどうやって個人を保つのか。『(miss)understood』というアルバムタイトルに彼女の悲鳴を感じる。「理解」と「誤解」のダブルミーニング。浜崎あゆみは理解され誤解されてゆく。

一連のシングルでも感じたが、彼女のバランス感覚。『HEAVEN』が「和」なシングルだとしたら、『Bold & Delicious / Pride』で大胆に「洋楽」と折衷する。「fairyland」で大がかりな MV を作ったら、「HEAVEN」では極めてシンプルな MV を作る。「fairyland」で “永遠” を歌えば、「alterna」で “変化” を歌う。……挙げだしたらキリがないが、浜崎あゆみの作品には、常に、バランス感覚を感じる。

そのバランス感覚が浜崎あゆみの「理解」と「誤解」を支えているのだなと思う。浜崎あゆみという「団体」でありながら「個人」であり続ける。それを支える、とてつもないバランス感覚。

浜崎あゆみは個人ではなく団体になってしまった。そんなもの背負わなくていいのに、個人でいて欲しかったと、昔からのファンは思うかも知れない。確かに、「引き受けない」という方法もあるのだと思う。しかし、椎名林檎はどうした? 宇多田ヒカルはどうした? 椎名林檎も宇多田ヒカルも引き受けなかったものを浜崎あゆみは引き受けたのだと…。

浜崎あゆみが「引き受けた」途端、離れていくのであれば、日本人は可愛らしいアイドルのころだけに興味があって、アーティストとしての成熟に興味がないのではないか?という、いつかどこかで見た指摘の通りになってしまうじゃないか?
下記のブログ(※3)にならえば、これは前述の「暗い/明るい」の話にも通じているのだけど、私は浜崎あゆみが『(miss)understood』で見せた変化を受け入れ、その先を見たいのだ。
(※3=小山田啓二さんによるブログ「その後の小山田啓二」より)

6. 浜崎あゆみの「ロック」はどこにあったか

『(miss)understood』が発売される直前、2005年の年末に開催されたカウントダウンライブでの出来事だった。開演前、リリースされたばかりのマドンナのアルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』が大音量でかかった。私はそれに震えるほど感動してしまった。

浜崎あゆみはよくマドンナの「パクリ」と言われていて、「ハマンナ」なんていう蔑称も見かけたことがある。それを本人も知らないわけがないのに、マドンナを堂々とかけた。ライブだけでなく、テレビでも最近聴いてる音楽を聞かれて「マドンナ」と答えていた。もちろん、「マドンナ」だから感動したのである。浜崎あゆみが自身のライブで「マドンナ」をかけた。
(そのとき、ああ、マドンナになれないことを誰よりもわかっているのはあゆなんだなと思った。洋楽コンプレックスはないけど、マドンナコンプレックスならあるかも知れない)

前作『MY STORY』で打ち出した「ロック」はどこにいったのか。ファンクやゴスペル、クラシックやエレクトロと新しいサウンドを聴かせてくれたのは嬉しかったが、浜崎あゆみの「ロック」が聴きたい。その答えはここにあった。アルバムリリース時、ラジオに出演した浜崎あゆみは、「どんなスタイルの音楽でも、魂がロックならロックだなって」というようなことを言っていた。やはり、「ロック」なのだ。前作が「ロック」の「スタイル」なら、今作は「ロック」の「魂」。浜崎あゆみは「ロック」の「魂」を、「マドンナ」に見つけたのだ。

前述の『近田春夫の考えるヒット』にはこんなことも書かれていた。

 大物はなかなか変われない。大物じゃなくたってそうだが……。
 年輩のニューミュージックの人達をみれば、それがよく判る。
 いや、世界中そうである。
 マドンナのようなダイナミックなシステム把握能力は誰もが有するものではないのだ。
(中略)
 マドンナみたい、というのが買いかぶりなのかどうか。

近田春夫の考えるヒット 439

それでは、貼り切れなかった MV を。

ロックはどこにいった?とか言いながら、ロックはちゃんとあるというか、ロックな曲はよりロックになっていって。この曲のドラムは江口信夫。
「(miss)understood」とか「alterna」とかよりコアなロックに…どちらもドラムは玉田豊夢。アルバム唯一の CREA曲(浜崎あゆみ作の曲)「Will」も玉田豊夢だ。ドラムでいえば、「criminal」では村石雅行が叩いてる。

映画『SHINOBI』の主題歌で、作品のために書いたというのをはじめて感じたかも。それが今ではしっかり浜崎あゆみの曲に。

GEO提供曲。淡々というか、ささやいてるような歌い方、それまであまりなかったなぁ。静かにはじまり静かに終わってゆく。まるで曲のはじまりと共に雨が降ってきて、曲が終わると雨が止んでいるみたいな。音がふっと消える瞬間、それがスウィートボックス版にはないんだよなぁ。

浜崎あゆみ『(miss)understood』、ぜひ聴いてみてください。


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