
さようならダークマター
「もうこれ以上地獄を生成しないでくれ」
投げやりな手話でそう言い放った彼女の表情が、冷ややかな視線が、脳裏にこびりついて離れてくれない。
初夏を迎えた今でも。
遡ること3ヶ月前、わたしはウンウン唸りながらキッチンとリビングを往復していた。
ふとカレンダーに目をやっては、大きな溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げるなんて言い伝えもあるが、知ったことではなかった。
2月のビッグイベントといえば、何があるだろうか。
そう、バレンタインデーである。
有名な菓子店からスーパーやコンビニに至るまであちこちでハートの飾り付けや美味しそうなチョコが並び始める、デブ活にはもってこいの時期だ。
製菓用品の陳列棚でああでもないこうでもないと悩む可愛い乙女たちを横目に、チョコの山にダイブさせていただいている。
今年は、普段お世話になっている会社の人たちへ渡す用のチョコを用意し、自分はお酒片手に高級チョコを思う存分嗜む――予定だった。
会社の人たちとのランチタイムでそれは起こった。
「もうすぐバレンタインだね!チョコ交換しようよ!」
とある先輩の何げない発言に、場の雰囲気は一気にバレンタインムードになった。
作れるお菓子のレパートリー、好きなお菓子、ホワイトデーでもらうお返しに込められた意味……会話を見ているだけでよだれが出てしまいそうな話題ばかり飛び交っていた。
わたしは完全に油断していたのだと思う。
「そうだ、たなかさんも作ってみてよ!」
耳を、いや目を疑った。
誰がどう見てもあれは「買う」の手話ではなかった。まちがいなく「作る」と表現していた。
そういえば数日前、「料理しないの?」「お菓子作りもしないの?」とやたら聞かれたような気がする。
あれもこれも全部伏線だったのか、見事に回収しているではないか。してやられた。
お菓子作りなんて数億年前にやったきりだし、ここはやんわり断って事なきを得よう、と考えていたのもつかの間だった。
わたしは生チョコ、もしくはブラウニーを作ることになってしまっていた。
ひとりで戦いに赴いてはいけない、と直感した。
途中で戦線離脱し、そこら辺のスーパーでチョコを買う未来が見えたからだ。
そこで友人(Aさんとする)に頼み込み、監視役もとい応援隊長をつけることにした。なんて天才的な発想なのだろう。
来たる戦いに備え、重い足取りで材料の買い出しへ向かう。
ドラ●エの移動呪文ルーラを唱えてみても体は浮かぬ。当然である。キメラのつばさをお持ちの方は連絡下さい。
みんな大好きGoogle先生に材料と作り方を尋ねつつなんとか材料を買い揃える。
この時点でかなりHPを消耗しているのだが、詳しくは割愛させていただく。
いざ迎えた決戦の日。ラスボスとの戦いを目前にした勇者(Lv.1)ばりの顔つきでキッチンに立つ。
使い古されたまな板と包丁を装備したかったのだが、残念ながら傷ひとつついていない。
本日作るお菓子は「溶かしたチョコをアルミカップに流し込んでデコったやつ」だ。
生チョコ?
ブラウニー?
そんなものは我輩の辞書にない。
「えーと生チョコだっけ?ブラウニー?」
そうだった、Aさんにはまだ言っていなかった。
「え?……ああ、うん、いいんじゃないの」
若干長い沈黙の後、Aさんはこう言ってくれた。ありがとう、察してくれて。
ミルクチョコ、ホワイトチョコ、ストロベリーチョコがキッチンに並べられる。
なおミルクは板チョコなので一度刻んで溶かす必要があり、ホワイトとストロベリーは溶かすだけでオッケーなものだ。
「まずは刻んで、それから溶かさないとね」
実はチョコを刻むなど、23年間生きてきて初めてのことなのである。
助けを求めるようにAさんをチラチラ見ながら、危なっかしい手つきで少しずつ刻んでいく。もちろん左手はネコの手。
指先が少しずつチョコレート色に染め上げられていき、そこから甘い匂いが漂う。
しかし幸せな気分にはならなかった。
想像していたよりも板チョコが固く、包丁に力を入れるだけでじわじわと体力を消耗していたからだ。たなかさんちょっとびっくりだよ。
地味に苦戦している間に、湯せんのやり方について調べてくれていたAさんがつらつらと読み上げながら説明しているのが視界の端に映った。
「で、次は温度計を……待って。あるの?」
首を横に振る。体温計ならあるが、熱湯に入れたら秒でぶっ壊れるだろう。
極力火をつけたくなかったわたしにとっては好都合だった。1ミリも良くないけど良かったのだ。
代替案を調べていると、電子レンジで溶かす方法が載っている記事に辿り着いた。
「刻んだチョコをボウルに入れて……あるよね?」
安心してください、ありますよ。
ところが、我が家にあるボウルでは電子レンジに入り切らない。
ドラ●もんのスモールライトでもあれば万事解決だったのに。ここはマグカップで代用することにした。
無事溶かすことに成功し、所狭しと並べられたアルミカップに流し込む。適当に買ってきたトッピングで次々デコり、冷蔵庫にイン。
驚きなのが、ここまでで軽く1時間半くらいは要している。時間が早く進む呪文でも受けているのか。
次は刻む必要のないホワイトとストロベリーだ。いそいそとストロベリーの入ったマグカップを電子レンジに移し、スタートボタンを押す。
鬼門であるミルクさえ乗り切れば、あとはこちらのもの。我らの勝利は近い!
ストロベリーも難なく倒し、この調子でホワイトとの戦いに打ち勝てばわたしの心には平和が戻るのだと意気込んでいたその時だった。
照明が消えた電子レンジから出てきたものは、ホワイトとは言い難い色味の物体。黄色と茶色が混ざったような、腐ったバナナのような、そんな絶妙な色をしていた。
明らかに先程入れたものではないような気がしたが、匂いはホワイトそのものである。
スプーンでかき混ぜていれば大丈夫だろう、と信じきっていたわたしは迷わずスプーンを取り出した。
数分後、わたしはやる気を完全に失っていた。いわゆる戦意喪失状態である。
マグカップには完全に分離してしまったホワイトが不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
「何をどうしたらこうなるの?」
わたしが知りたい。
「いやあの、溶かすだけだよ?」
ごもっともである。
袋の裏に記載されていたレシピ通りに動いていたはずだった。どこで何を間違えてしまったのだろうか。
呆れかえるAさんとともに解決方法について知るべく、再びインターネットの海に飛び込む。終戦は遠のいた。
ブラウザバック、サイトを開く、ブラウザバック、サイトを開く、ブラウザバック……
無になってひたすらスワイプし続けているうちに、レンジでもう一度温めれば元に戻ると書いてあるサイトを発見した。
藁にも縋る思いでレンジに入れ温め直したが、本来の姿に戻ったのは一瞬だけだった。希望は打ち砕かれた。
人間とは、どうにもならない局面にぶつかった時や、自らの力量では限界だということを悟った瞬間、突拍子もない行動に出てしまう生き物なのだとつくづく思う。
長きにわたる戦いに疲れたわたし(HP:1)は何を思ったか、作りすぎて余ってしまったストロベリーと謎の物体に成り果てたホワイトを混ぜていた。
※後にたなかは「混ぜればなんとかなると思った」と供述しており…………
本来の色を失い茶色に侵食されてしまった大量のホワイトのなかを、鮮やかな桃色で彩られたストロベリーが渦巻き状になって優雅に泳いでいる。
まるで巨大な味噌汁にナルトが浮かんでいるように見えた。
悲しきかな、実物は閲覧注意レベルである。
見目はともかく、問題は味のほうだ。
もしかしたら意外といける味かもしれない、とひとくち口に運んでみる。
――ここで味について記したかったのだが、あまりのマズさに記憶が吹っ飛んでしまっている。一生の不覚である。
ただ、飲み込んだ時に名状し難い不快感があったことと、死ぬほど後悔したということだけは確実に言える。
いけるかもしれない、と思ってしまった自分が愚かだった。
「ダークマターじゃん……」
「もうこれはアホの極みですわ」
Aさんはそう呟いた。わたしは正気ではなかったのでAさんにも試食を勧めたが、当然の如く断られた。
どうやらこれはダークマターらしい。
ラスボスどころではない、完全なる裏ボスではないか。
自らの手で生み出してしまったダークマターが、我が家のキッチンに鎮座している。最後の仕上げを今か今かと待ち構えている。
わたしはそれを見つめ、ただ笑うことしかできなかった。
「もうこれ以上地獄を生成しないでくれ」
これにて終戦。ダークマター、なかなかの強敵であった。
せめてもの慈悲だ、と最後の仕上げとしてデコってやる。
この時わたしは心のどこかで淡い期待を抱いていた。もしかしたら劇的に生まれ変わるかもしれない、と。
諦めが悪いと思っただろう、まことにその通りだ。
ミックスカラースプレーやアラザンを良い感じになるようぱらぱらと振りかけていくと、心なしか美味しそうに見えてきた。
ヨーロッパの郊外にある一風変わった菓子店のショーケースに並べられていそうだ。やるじゃないか、いいぞ。
ちょっとオトナになりたいと思って購入したオレンジピールをひとつまみ、そっとトッピングする。
これは持論だが、チョコとオレンジピールの組み合わせは最高だと思っている。
悪くない出来だぞ!と目を輝かせて振り向いたら「地獄ここに極まれり……」と鬼のような形相をして立ち尽くすAさんがいた。
わたしは何も見なかったことにした。
最後に映えもしない写真を撮り、ダークマターの冥福を祈りつつゴミ袋にダンク。
永遠の別れを果たした。
翌日、無事に討伐できたミルクとストロベリーを会社の人に捧げた。念のために、と胃薬を数個持っていったのだが出番はなかった。
――実は自分の胃は朝からずっとムカムカしていた。どう考えてもダークマターのせいだった。
しかしダークマターの名誉のためにも黙っておくことにした。
珍妙な出会いをありがとう、さようならダークマター。来世はゴデ●バになるんだぞ。