うららかな春の日と微熱
うららかな春の日。
おひさまのよくあたるベランダで、真っ赤なまあるいりんごを半分だけ切ったものを食べて、ガラスの花瓶に活けたお花を愛でている。
時計は午前11時を指し、カレンダーは火曜日だと教えてくれた。
ど平日の暖かくうららかな春の日にわたしは風邪をひいた。
身体を壊すように、心を壊すことがある。それはいつも突然で、兆候もなく、知らないうちに自然に元には戻れないまで崩れてゆく。
多分そんなこと全ての人にあることだし、その壊し方や程度を比較するのはナンセンスだけれど、自分に関して言えば半年に数回、多い時は月に一度の一定期間、外に出ることも人と話すことも何をするにも無気力な日が訪れる。
自分の場合、心の風邪を治す方法で最も効果的な方法は、全ての「やらなくちゃ」「すべき」という意識を手放すことらしい。わたし自身そんな意識をもっているつもりはまったくないけれど、専門家がいうには自分はありとあらゆる出来事に対して気負い過ぎてしまう性分があるらしい。そして、こうやらなくちゃ行けないと思い込んだことに関しての自己犠牲は厭わない。その反動で心が風邪をひいてしまうというわけだ。
とはいえ、心の風邪とももうかれこれ長い付き合いなわけなので、そうなったときは、自分の感じるまま、身体の望むままに、眠って、食べて、近所を散歩して、歌を歌って、物を書いて、自分のペースで生きる24時間をつくるというやり方でなんとか対処をしている。周りの声は一旦シャットアウト。言葉通り自分の命を本当に自分のためだけにつかう期間をつくる。そうしてじっと耐えていると元気な時期がやってくる。
この世界を生きるのが上手な人と下手な人で二分したら自分は圧倒的後者だと思う。この世界は、共生で成り立っているから、自分本位だけでは生きられない。みんなそれぞれ折り合いをつけて、たまには譲ったり、手放して生きている。世界を回すためにはみんなそうやって生きなくちゃいけないのだけれど、自分はその選択ひとつひとつにしっかり悲しんだり、なるべく手放すことがないような方法を、全てを手にする方法を苦しくても導きたがる。それってすごくわがままだなって思う。それで風邪をひく、などというのは甘えだとも思う。
そしてここからが本題。今回困ったことが起こった。いつもはしばらくするとよくなる風邪がなかなか治らないのだ。ただその正体をわたしは知っている。数年前にも同じようなざらっとした感覚がまとわりついたことがある。
労働をおやすみする(実際している)わけだし、専門の病院へいって、名まえをつけてもらって、その正体を明確化すれば迷惑が最小化するであろうことはわかっている。ちゃんとした手順を踏めば、みんなで一丸となって長い風邪を治すことになり、わたしも「自由に生きてもいいよ券」を与えられて、あらゆる「しなきゃ」から強制的に解放されることもわかっている。数年前は上記の手順を踏んだ。事実に少しショックを受けつつも、原因がはっきりして心が軽くなったし、処方される薬は頭がぽけーっとして苦手だけどたしかに楽になる。(いや、逆に無気力に拍車がかかりまったく動けなくなるときもある)
だけど名まえをつけられることで、事実を事実として提示することで、大切な人たちを悲しませること、心配させてしまうということも同時に変えられない事実としてあった。そのくせ名まえをつけたところで本当の意味では何も変わらないのだ。わたしがわたしを許すことができない限り。だから今はこの長い風邪の状態を明確にしないこと、騙し騙しやってゆくのが正解だとわたしは選択した。
一方で現状維持を自らで行うことは、自分と関わる人に多大な心配と迷惑をかけてしまうという事実もある。この躁鬱な姿を、自傷行為を繰り返す姿を、痛々しく思う心優しい人もいてくれる。
だからできるだけきちんとハッピーでいたい。
今はそのためにいろんなものとの距離の取り方を上手になりたい、と思っている次第です。
だから今回のずる休み、肯定してゆきたい。
弱くってごめんなさい。本当に普通のこと普通にこなせなくて歯痒い。多分、日々強く忍耐強く生きている人からしたらこういうのを見るのも読むのも苛々するんだろうな。だけど自分もここにいる以上最後まで生きなくちゃならないから細くてもできるだけ長く、穏やかに進める方法を死ぬまで模索してゆきますので。だからこそみんなにはいつもいつまでも誰よりももっともっとハッピーでいてほしいとおもうな。大好きな人たちが幸せな様子は心が潤うから。
桜もちらほら咲いて、春は目前。季節も日々も幸福もわたしも。ちゃんと進んでいるから何も心配することはないね。
明日からまた日常に戻れますように。
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