コモンズ思考をマッピングする 第7章(後半)
研究室で輪読を行なっている『コモンズ思考をマッピングする ——ポスト資本主義的ガバナンスへ』の第7章「『コモンズ+P2P』思考を地図化する——ポスト資本主義的ガバナンスへ」の後半について、全体のサマリ、ゼミでの議論内容、読んだ感想をまとめていきたいと思います。(文責 M1 中川)
サマリー
1. Commons-based peer play
本節では、ホモエコノミカスvsホモルーデンスという視点で比較を行います。
筆者はこれまでの議論で様々な分野の「コモンズ+P2P」思考の活性化しているが、人々が向かいつつある新たな価値観には、まだはっきりとした表現が与えられていないと指摘し、コモンズ志向社会への転換を進めていくには、新たな価値観の素描が重要であると指摘します。
ここでは文化コモンズの領域について、Commons-based peer playというモデルで考察を行い、特にJ・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」の再考を行います。
2. ホモルーデンスの考察
筆者は「かけがえのないたいもの」という体験に着目します。
ホイジンガは「遊び」を「ごっこ遊びなど子供の遊び」「儀礼、ゲームなど聖なる遊び」「文化現象としての遊び」。さらに「文化現象としての遊び」を「競技、ゲームなどルールが明確な遊び」と「音楽・舞踊・演劇など表現的な遊び」の二つに分類しています。筆者は、「聖なる遊び」「ごっこ遊び」「音楽・舞踊・演劇などのパフォーミングアーツ」の相互関係に焦点を合わせ、「かけがえのなさ」の体験を浮き彫りにしようと試みます。
儀式に代表される虚構のドラマには、日常のリアリティとは異なる「別のリアリティ」を構成する力があり、この「別のリアリティ」だからこそ達成できることがあると指摘します。遊びにおけるの「昂揚感と緊張」は「脆さ」と不可分の関係であり、これによって儀式の「一回性」が生まれ「かけがえのない」体験になると考えます。
3. ギサロ儀礼と能の比較
さらに「別のリアリティ」への移行に伴う演じ手と観客の間の緊張関係について、「聖なる遊び」とパフォーミングアーツを比較します。「聖なる遊び」の具体例として、パプワニューギニアのカルリの人たちのギサロ儀礼を選び、パフォーミングアートの具体例として日本の能を比較します。
カルリの社会は婚戚関係のあるグループ同士で互いに贈り物を交換する互酬的なコミュニケーションを通じて、信頼関係が維持されています。ギサロ儀礼は一種の贈り物としての性格を持ち、グループ同士は対照的な関係にあります。
能については世阿弥の「風姿花伝」をはじめとする著作と、観世寿の著作を取り上げます。
世阿弥の演劇論は演者と観客の関係を考えたものであると指摘し、能は観客と演じ手という非対称な関係にあると指摘します。
さらに、虚構性についての考え方の違いなどを指摘しますが、ギサロ儀礼も能も、その社会のコスモロジーの下での究極の美を演じ手が体現すると筆者は考えます。
それぞれの「一回性」が「かけがえのなさ」と言う経験につながり、さらにこの「かけがえのなさ」が功利主義に対抗する概念になるのではないかと指摘します。功利主義の思考を純化していると言える新古典派経済学のモデルは、財・サービスの一定の効用は置き換えが可能と考えるためです。
4. Commons-based peer playとしての能
パフォーミングアーツにおけるCommons based peer playのモデルでは、
その領域における作品のレパートリーや演者と観客のスキルの集積がコモンズの共有資源となり
実演家の組織や批評眼を持つ観客、後援者などが資源を管理するコミュニティになる。
そして、その時、その場での実演のプロセスにおける演者と観客の相互関係と緊張関係がPeer Playの部分になる。
そして、実演のプロセスでの演者と観客の経験は、演者と観客のスキルを変化させる。したがって<Peer Play→Commons>と言う連関が起きると指摘します。
「コモンズ/コミュニティ+行為者相互作用」のモデルに基づいて、パフォーミング・アーツの歴史を再考すると、さまざまな発見があると筆者は考えます
5. ネオ・リベラリストとコモンズ志向派の対抗関係
ネオリベラリストとコモンズ志向派の人間像、価値思考、理論モデルを整理すると以下のようになる。
コモンズ志向社会の個々人のセルフ・ディベロップメントのイメージを描くには、多様なコモンズ/コミュニティが並存し、個々人は縁のあった複数のコモンズ/コミュニティのメンバーとなるという形が想定されます。複数のコモンズ/コミュニティの経験とスキルが個人の中に蓄積していき、やがて、異なる領域の経験とスキルの統合が進み「個性化過程」が起きると筆者は指摘し、セルフディベロップメントの過程で「かけがえのない」経験や出逢いが決定的に重要な意味を持つと筆者は考えます。
ゼミでの議論
ゼミでの議論は作中に触れられる和歌コモンズについてからスタートしました。一定の知識がないと遊べないからコモンズであると考えると、他の茶道や剣道など、「道」がつく芸事のコミュニティはコモンズの要素を構成するかもしれません。
また、人類学的な観点から、呪術と科学の比較について議論が及びました。我々が信じている合理主義と、本書で触れられる遊びは表裏一体なのではないかという指摘がありました。
また、都市以外では貨幣交換でない価値交換が成立するが、都市部ではこの価値交換が成立しにくいことについても議論が及びました。
感想
様々なコモンズ/コミュニティに所属することで異なる領域の経験とスキルの統合が進むと言う筆者の指摘について、趣味や仕事、学問の経験が統合されていく経験がありとても納得感がありました。様々なコモンズ/コミュニティへの所属が、都会に生きる人たちにとっても、公でも私でもない「共」の概念を再度認識させてくれるきっかけになるかも知れないと感じました。
文責者が剣道を長年やっていることもあり、風姿花伝の内容と「一回性」「かけがえのなさ」と言う概念については、体験・経験がありイメージがしやすかったです。武道における道場とは修行の果てに「道が現れる」場所であると説明されることが多いですが、こういった経験が本書で言うところの「一回性」「かけがえのなさ」なのではないかと考えられます。オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」において描写される「無心」の体験は、まさに「一回性」「かけがえのなさ」なのではないかと感じました。
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