かぐやSFコンテスト2
最終選考にまで残った「かぐやSFコンテスト2」ですが、受賞には至らず、拙作『スウィーティーパイ』はノータイトル無冠のまま幕を閉じました。とはいえ匿名での応募・投票・選考という流れはスリリングでとても楽しかったのでした。
せっかくなので最終候補、選外佳作、惜しくも落選してしまった作品に限らず、個人的に好きな作品について僭越ながら感想を述べたいと思います。
黄金中の恐怖
最終候補10作中、最も好きな作品。端正な文体がともかく好みで、古典っぽさを感じた読者も多かったみたい。ここにあるのは過ぎてしまった過去であり夏だ。『スタンド・バイミー』や『ストレンジャー・シングス』などアメリカ・ジュブナイルものを想起させる。世代的に『MOTHER』などのゲームも連想した。サリンジャーを加えても良い。この雰囲気には弱い。想起された少年時代というのは常に喪失感を伴う。
僕の人生は半ばを過ぎ、今や平穏のスープの中にある。しかし、ふとしたきっかけでスープが揺れると、決まって底からあの夏がひょっこりと浮かび上がってくる。
完璧な出だしである。周到で落ち着きがある。上品かつウィットに富んでいる。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の冒頭を思い出した。何かに似ているという連想と想起自体が、この物語の凡庸さよりむしろ卓越を物語っていると思う。過去の名作との薫り高い類縁性でもって喪失の痛ましさは語られる。また喪失を受け入れないまま成長する強靭な魂があることもまたこの作品は教えてくれる。幼馴染のデビーがデボラ・ホックニー博士として立ち現れた時、一挙に過去が、大人になった僕の現在に接続される。
僕は、その時にはじめて、あの夏がまだ続いていたことを知った
とっても、おすすめです。懐かしくも幸福な読後感をどうぞ。
境界のない、自在な
読者賞を獲得された作品。わたしの周囲やネットでの感想を散見する限り、この作品の評価は高かったが、一方身体換装の描写にたじろいだ方も多かったようだ。
さきほどまで小さな城壁だった唇さえ、すみやかに切除される。
本作は、唇を切除し、足の小指を切り落とすまでの物語だ。なぜ、唇が城壁なのか。喩えとしてどこかそぐわない気分にさせられるのだが、読み進めていくうちに納得させられる。城壁という内外を分かつ隔壁をまず破壊することで境界のなさが現われる。損壊によって測られるタイムスケール。これをもっともわかりやすく表現しているのは掃除機の故障である。
曽祖母はモリを矢にするために先端をより深く削り、散らばった木片を自動掃除機が吸った。曽祖母が壊してしまうので、今年にはいってから三回も修理にだしている。
六台目の掃除機を壊している曽祖母を尻目に、ひき肉を整形する。
八台目の掃除機が壊れた日。ボルシチをつくる。
物事の乱雑さを吸い込み、秩序を作り出すはずの掃除機が壊れることで物語における時間の流れは示される。破壊は経時効果そのものであるが、これは仏教的な諸行無常でもない。曾祖母にとって、もっともっと得体の知れないものだ。あらゆるものが代替可能で目まぐるしく、ひとたびも休まることがない、そんな境界なき選択可能性は、どこに行き着くのか。
探そうとすればするほど、あまりに多彩で境目がわからなくなる。
冒頭において城壁である唇が破壊されたことによってなのか、物語全体に直接話法による語りは消えている。地の文と台詞を分ける「」の不在もまた境界のなさ、そのあらわれとなる。とりわけ口少ななミミの唯一と言っていい言葉は終盤近くの「小指がない子のほうが多いの」である。
繰り返す。境界なき自在さは、どこに行き着くのか。足の小指を失っていることからわかるとおり、もはやどこへも行けないのかもしれない。
どうにかしようと、おもいどおりにしようとする。精霊を呼ぶ、機械をつくる、乳のない母親が粉ミルクを沸かす、おなじだってわかっているよ
いや、わたしは小指なき足でこそ踏み入れることのできる未踏の世界こそを予感する。精霊を呼ぶことと機械をつくることとが見分けのつかない地平。おもいどおりにしようとし、すべてがどうにかできるとき、果たして人の「おもい」はまだ存在するのだろうか。
チャイコフスキーの亀頭
これは選に残らなかった作品らしいが、そんなことはお構いなしの魅力がある。今回は『二八蕎麦怒鳴る』の掛け合いがユーモラスで面白かったという評判が高かったが、わたしは本作のような大真面目にヤバいムーヴを繰り返す作品も好きだ。
包皮は雁首の手前で弛んで留まり、完全に露出した亀頭の先端は少し黒ずんだ肌色をしている。
要は、亀頭がピンク色の、「純潔」と「美徳」の体現者であるチャイコフスキーでなければ認めないということだった。
これだけ読んでも笑ってしまう。「純潔」と「美徳」とが亀頭のピンクに託される。だしぬけに、わたしはハタと思い至った。これはギャグでも悪ふざけでもなんでもなく至って真剣そのものな作品ではないかと。
想像してみる。わたしが選考委員なら、この作品を最終候補に上げてしまっていたかもしれない。とてつもないダークホースとして、きっとこの作品は話題を浚うだろうし、コンテストは謎の活況を呈すだろう。わたしの英断は同時に愚行として記憶されるはずだ。きっと読者投票の結果にも影響を及ぼすに違ない。
しかし、人目を恐れて、わたしはこれを推さないかもしれない。選外佳作にも残さず、ひっそりと記憶の底に葬るのだ。拭い切れない後ろめたさは、わたしの心の敏感な突起部分を黒ずませてしまう。シベリア送りにふさわしい振る舞い。でも、やはりわたしには亀頭を選ぶ勇気が出ない。どうしても亀頭を天高く掲げられない。鮮やかなピンクの御旗を振って、心のままに大地を睥睨したいが、もう手遅れなのだった。現実のわたしは選考委員ではないものの亀頭を選ばぬかもしれぬ臆病さにおいて、どこか暗く俯き加減になるのである。
まとめ
まとまっていない。「何事も挑戦だ」という言葉以上に「何事もリベンジだ」という心構えで生きていたわたしは、次回も応募!と決めていたのだったが、かぐやSFコンテストは来年は開催されないという。運営や選考委員の負担も思いやられる。心からのお疲れ様でしたを捧げたい。