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小休止:1年前の今日を見返す

たまに1年前や2年前や3年前の今日の日記を見返す。去年の今頃何をしていたのかなんて真っ白に忘れていて、読むと必ずそこには別人の自分がいる。一文無しなのに働いてもいなかったし、博論も書ききれていなかった去年の8月。その絶望すらすっかり忘れていた。それからいろんなことが起こり、必死にやり過ごし、今の私に至るなんて去年の私は知る由もない。そして、去年の今日思い出していたことを、今日の私はもうありありと思い出すことができない。

忘却は人間に等しく与えられた才能である。忘れられるからこそ今日を新たに生きている。


2023年8月1日

朝から就職エージェントと面談。ありきたりの質問に、準備していた答えを答えていく。こんな決まりきった、わかりやすい答えで自分に合う会社が選定されていく、選抜されていくなんて、なんて不幸な世の中なんだろう。私を表現する言葉も話もそんな単純なものではないのに、すべてをショートカットしてキーワード化して伝えないと就職できないなんて、そんなに効率化して何になるんだろうかと考える。私の答え方がよくないのだろうか。もっとほかに言いようはあるのだろうか。そして新卒のときと同じような面談プロセスにぞっとする。もうあの頃から8年ぐらいたっているのに、同じような選考を受けているなんて。悲劇である。

午後は通り雨。久々にとっても涼しい。今日はノースリーブを着て出かけてみる。人生ではじめてノースリーブで出かけた日。二の腕がコンプレックスで腕を出すファッションを身にまとったことはないが、あまりの暑さに着てみた。案外着れる。そしてなによりも涼しい。

お昼、友達に教えてもらった近藤聡乃さんの「ニューヨークで考え中」の原画展を見に飯田橋に行く。漫画の背景を緻密に埋める、高層ビルの描き込みの細やかさに見入る。細く均一にひかれたリズムある線が彼女の絵のキュンとくるところである。線に繊細さがあるけれど、神経質ではなくてのびやか。見ていて気持ちがよくなる。

ニューヨークの街角、誰もいない車道の真ん中で、キャラクター化された近藤さん本人がくるりと回っている絵が目に留まる。マスクをつけている。誰もがパニックで落ち込んでいたあの頃を、ポジティブに反転させているようでよい。誰もいなくなった道だから、思いっきりダンスができると言わんばかりの軽やかさ。コロナのニュースが飛び始めて間もない頃だろうかとキャプションを見る。2021年はじめ。彼といた時期だ、と心の中でつぶやく。原画展は、2020年から2021年のニューヨークの風景をトレースして描かれたものばかりが展示されていた。誰とも会えなかったあの時期、彼と会い続けた日々があったということしか今は思い出せない。いつまでも、この先も、彼とともにコロナを記憶する気がする。パンデミックだったとか、研究ができなかったとか、現場がなくなって大変だったとかそんなことより、彼といたということが真っ先に浮かぶ。彼と何をしたのかはぼんやりとしか思い出せない。彼といた、ということだけが鮮明である。

別れたのはいつだっけ、と真面目に考える。会っていたのははるか昔の一瞬のことのようなのに、別れたのは去年かと思い出しびっくりする。彼と過ごした時間と別れた時期がなんだかばらばらに記憶されている。2020年のほとんどと2021年の全部を一緒に過ごしていたなんて嘘みたいだ。

近藤さんの作品はとってもよい。ささやかな気づきや日常のなかの小さなことを抱きしめたくなる。そして、いつのまにか歪んでしまった考えや感性や感情が、清く正されていくような感覚になる。真っ当に、健康に生きるっていつから難しくなったんだろう。でも、それが一番大事なことだし、それ以外はどうでもいいものなんだ。そんな当たり前を確かめる。

近藤さんがいるアート界はまだ救いがあるなあと思いながら展示会場をあとにする。会場をでると飯田橋沿いがとっても涼しい。雨あがりなのに、湿気は少なくひんやりしている。そのまま研究室に向かい、のろのろと仕事のレポートを書ききる。やっとこさひとつ仕事がおわった。心はすっきり。すでに20時、今日も論文までたどり着けなかったけど、明日はインタビューの依頼内容を整理して、少しだけ執筆を進めたい。8月の出だしとしてはまずまず。一ヵ月も研究室にいけなかったのだから、今日から何かしらのテキストを書き始めたというのは大きな変化である。明日もきちんと頑張りたい。やることがみえてきたからあとは粛々と突っ切るだけである。

帰り道、あまりにも涼しくて気持ちがよくて、ノースリーブの自分を楽しみたい気持ちから、いつもと違う道で川辺の散歩に向かう。その途中、ガラス扉全開の飲み屋の前を通ると、見慣れた顔たちが。楽しそうに飲んでいる研究室の人たちと目が合い、「あー!」と呼び止められ合流。飲みたい気分だったので一杯飲む。一人に向き合わないといけなくなるのが嫌で、わざと帰宅を遅らせる日が続く。

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