2024年10月26日
あっという間に10月も終わろうとしている。ようやく涼しい風がそよいでいる。少しずつ衣替えをしてきたので、クローゼットの中にはすっかり落ち着いた色味ばかりが並んでいる。
腰を落ち着けて日記を書く余裕が相変わらずない。その上、毎日たくさんの出来事が起こるので、あまりにもいろんな思いや考えが押し寄せてきて、文字にすることが追い付かない。今はそれらに形を与えずに、ひとまずただそっとしまう。いつかまた記憶の底から呼び起こされる日が必ず来る。だから、その日まで安心して忘れて生きる。過去に出会い直すための忘却を今からこしらえるのだ。
人知れず誰かと時間を共有し、共有していることすらもすっかり忘れたまま、確実に時が流れていることの愛しさと切なさに包まれる10月である(こう書いて、急に篠原涼子の声が脳内に流れ出す。ちゃうちゃう、そのテイストと今日の日記は合わへんのや!と必死に打ち消す)。
ソウルで18年ぶりに再会した叔母は、すっかり白髪が混ざり、「あなたの成長をそばで見られなかったのが残念だわ」と呟いた。その口元が母とそっくりである。若かりし彼女を見届けられなかったことが私も悲しい、という言葉を飲み込んで、「これからはたくさん会いましょうね」と笑顔で声をかけた。
5つ星ホテルの高級ラウンジで働く叔父の姿を眺める。子どもの頃から何度も訪れたこの場所で、叔父の凛々しい佇まいを見られるのはあと3年である。韓国で過ごした学部生時代、夜のソウルを叔父が車で何度も送り届けてくれたことを思い出す。何十回とあった2人きりのドライブ。しかし、車の中で交わした会話はほとんどなかった。暑い日も寒い日も、そのときのチャートを賑わしていた音楽を一緒に聴きながら、何本も通りすぎていくオレンジの街灯を叔父の隣で見つめていた。
久々に平日の夜に友人たちと集う。1人は東京出張のついでに、1人は繁忙期の合間をぬって退勤後にタクシーで駆けつけた。大手町の地下でもつ鍋を楽しく囲む。15年以上の付き合いの彼女たちだが、3人そろって仕事終わりの夜に食事をするというのは片手に数えるほどしかなかった気がする。物理的にも年次的にも気軽には会えなくなってきたという今になって、こうしてふらっと集える私たちで本当によかった。
1年前に「こういうことしてみたいねん」と楽しそうに語っていた友人は、その夢を叶えるように国内外の公演に立っている。丁寧に公演のお知らせを送ってくれたのでいそいそとチケットを申し込んだ。ところが、その公演がある週にハードな現場が続き、疲労による強烈な眠気から、椅子からずり落ちながら公演を見るはめに。それでも、見事に主演を演じる友人を見て、叶えたいことを叶えるという誰かの道のりを、いつの間にか目の当たりにしている不思議を感じていた。
それぞれの過ぎ去った時間の中に、私の存在が少しだけ含まれている。私の時間のなかにも、彼女や彼らの痕跡が残されている。普段は交わることなく過ごしていても、実はお互いの時間はずっとうっすらと重なり続けているのかもしれない。1度出会えばそれで終わりではない。変わり続けているあなたに会える明日が来る。今月はそう思わされる瞬間に何度も出くわし、その度に胸がいっぱいになってなぜかしんみりしてしまった。大して望んでいないのに季節がしんみりを焚き付けてくる。これだから秋は嫌いである。
決まって一人の静寂に包まれる帰り道にそんなことを考えながら歩く。でもこの頃の心はどこまでもあたたかなので、涙は見せない。(やっぱり篠原涼子の声に舞い戻る。やめてー)