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釜山vol.1:地下金庫にて
Le Parisと象られた巨大なサインが薄暗い地下空間でじんわりと赤く光っている。セネガルの首都ダカールにあった映画館の看板を再現した作品らしい。しんとしたこの地下空間は、韓国の釜山にある古い銀行の金庫である。今は展示空間として再活用されている。
ダカールの人々が見上げてきたであろう今はなき文字が、今日の釜山の地下に浮かんでいる。夜を照らしていた地上のネオンが、時間のない密閉された空間に掲げられている。なぜダカールでもパリでもない釜山にこれが展示されているのか。その上、ここは金塊や貨幣が敷き詰められていた場所である。決して置かれるはずのなかったものが置かれている不可思議さに引き込まれていく。
赤くて暗い地下でLe Parisと私が出会う今は、歴史の連鎖、技術の発達、美術の意味や受容の変化といった途方もない数のピースがはまり合い存在している。それは、人為的に誘導することも予見することもできない、微細な偶然の粒が連なることによって可能になる。その結果、あらゆるものが本来の意味や文脈から切り離されて、誰にもありえなかった景色が現実になる。
作者はアフリカのディアスポラをテーマに制作をしているそう。作者のなかに堆積された感覚がこの唐突な赤い発光体に克明に刻まれている。流離わざるを得ないものたちに用意されているのは通過点のみである。仮設的に宙に浮かぶこのサインのように。言葉ではない何かが私の眼差しを掴んで離さない。
銀行の金庫だった空間にはほかにもいくつかの美術作品が展示されていた。金庫というものにはじめて足を踏み入れてみたが、思った以上に広くて堅牢である。見るからに重そうな扉や分厚い壁だけでなく、複数ある金庫をつなぐ廊下にはいくつもの鉄格子が並ぶ。展示を見に来ていた子どもたちが「監獄だ!」と興奮していた。
金庫という馴染みなき空間の強さに、どの作品も萎縮しているような気がする。もしくは、そのことを危惧するかのように、空間がキューブ風に整えられている部屋も。ではなぜ金庫を使った展示をしているのかと問いたくなってしまう。誰もがサイトスペシフィックなものを出展しているとそれはそれで展示としてはつまらないが、巨大な金庫など見たことのない私には空間の異様さが先に映る。その文脈をあえて使わない作品は、よほどの自律性がないとこの空間には耐えられないのではないか。
逆に、空間の文脈に寄せるのが、今では手っ取り早い表現方法になっているのでは?とも考える。あんなに興味のなかった静物画がこの頃やたら気になるのは、ただの静物の画だからである。もちろん、描かれたモチーフや静物画自体に込められた意味はあるが、究極にはそこに置かれたモノが精緻に描かれているだけという無意味さがとてもよい。Still life is empty. からっぽに怯える現代人。私も含めて。しかし、ないからこそ満たされる。そう振りきれる強さに憧れる。
Le Parisに引きずられながら次の金庫へ向かおうとしたら、誰かとぱたっと向かい合わせになる。よく見ると、別の展示室で同時に出口から出ようとして、「先にどうぞ」と譲り合った人だった。英語で話しかけられそうだなと思っていたら、案の定流暢な英語で話しかけられた。シンプルな身なりなのにその人らしさに包まれていてなんともスタイリッシュである。そういえば、作品を見る佇まいがあからさまに鑑賞慣れしていた。展示最終日に海外から来るぐらいだからアート関係者なのだろうという瞬時の推測は、その場の答え合わせによってすんなり立証される。お互い自己紹介しながら話しているととても感じのいい人で、会話が終わらない予感がした。
台湾を拠点にアーティストとして活躍する彼女は、今朝私に出会っていたらしい。「1人でごはんを食べていたでしょ」と言われる。そういえば早朝のがらんとしたテジクッパ*の食堂で、私の向かい側に黒い帽子を目深にかぶった人が1人いたなと思い出した。彼女が「会えてうれしい」と私の手を取り握手をした。ふんわりとあたたかな手だった。
「このあとディナーを一緒に食べよう」と言われ、一旦連絡先を交換して別れた。彼女の親しみに、好意的な何かをなんとなく感じる。腕時計を見ると午前11時13分。ここは未だに暗くて赤い。
*釜山名物で、豚を煮込んだスープにご飯をいれたもの。テジは豚、クッパはスープごはんのことである。
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