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2024年6月12日
昨日から往復3時間の旅をしてから出勤している。4時に起きれるか心配していたが、ちゃんと起きれる自分に感心する。夜明けと朝の間の時間は、見たことのないきれいな瞬間が溢れている。今日は、部屋の中に差すオレンジ色の朝日が屈折して、奥まったところにある日の差さないキッチンに、小さな光のスクリーンができていた。数分で消えてしまうスクリーン。こんな刹那的な美しさが毎朝部屋のなかに生まれていたなんて知らなかった。
朝から郊外のとある農園でブルーベリーを摘むお手伝いをしている。同じ職場で働いている後輩が毎朝ブルーベリーを収穫するバイトをしているという話を聞いて、私もやりたい!とぎゃーぎゃー騒いでいたら瞬時に農家さんに繋いでくれた。本当に行くことになっちゃったよ、と自分で言い出したくせに事の早さについていけない。後輩は普段の仕事もとても気が利いて頼りになるのだが、何かを頼んだり任せてしまうと勝手に事が動いていく。誰かがつくる流れに私も呑気にゆらゆら乗っている。その感覚がこの頃はとても楽しい。
ブルーベリー摘みにまつわるエトセトラがつきない。作業を始めてたった2日だが、新しい経験によって言葉にできないささやかな感動が朝から溢れている。そういうときは、断片的なキーワードや文章をメモしておく。この興奮を忘れないように。そしてすっかり忘れる。そのうち、書きたいかもという予感がふと訪れたら、そのときに文章に書く。ブルーベリーを摘んでいる今日までの流れはなかなかに面白いので、熱が冷めないうちに近々書く。
研究を始めてから、ちょっとのことでも琴線に触れた出来事はメモしておくという癖がついた。それを日記に書き起こすということもたまにする。でもメモで終わることがほとんどである。なにもやることがない暇なとき、疲れている日が続くときに思い出したようにそれらを読み返す。読み返して、いらないメモは消したり、再び心の琴線に触れたメモはそのまま残しておいたりする。それだけ。そのことが思考や感性の血肉になっている気もするし、ただの吐き捨てにすぎない気もする。どっちもか。
農園に到着したらすぐにブルーベリーを摘み出し、きっかり2時間休みなく働いたら農家さんの車でさっと駅まで送ってもらう。一見無駄のないシンプルな動線なのに、ここ数ヵ月を凌駕する密度の思索でその動線が埋め尽くされる。
健やかで静かな郊外の朝から、ぎゅうぎゅうと人が押し寄せる都会の朝へと再び移動する。オフィスについたら次々と動く仕事のやりとりを必死にとりまとめ、あの人やこの人と打ち合わせをして、スタッフの定例会議を行っていたらあっという間に夜。週末にある懇親会のために大人数が入る飲み屋を探すというのが今日の最後の仕事だった。こういう仕事が一番苦手である。どっと疲れる。郊外と都心の速度が違い過ぎる。1日で2つのタイムゾーンを味わっている。
退勤する前にスマホを見ると、長年の友人から連絡が入っていた。昨日ふとその友人に会いたくなったのだが、今月は週末が全部埋まっているので来月に連絡するかと考えていたところだった。ここ最近は私から誘うことが多かったので珍しい。うれしい。3時間前ぐらいに彼女から、今日そっちの職場の近くにいるんだけど会える?と連絡が来ていた。もう帰っちゃったのかなと考えながら、会いたいと返事を出す。
そういえば、昨日ブルーベリーを摘み終わったあとに、後輩が「梅ジャムを作るんです」と同じ農園で育てている梅を拾っていた。丁寧な暮らしをしてるなあと羨ましがりつつ、ジャムつくるのは面倒やなと私は拾わなかった。そうしたら、今日たまたま顔を合わせた上司から、梅ジャム作ったんだけどいる?と手作りのジャムをいただいた。すごいタイミング。じんわり香る梅の季節にいつの間にか私も取り込まれている。
スマホが光る。まだ近くにいるよと友人から返事が来ている。彼女のもとへ急いで向かう。思っていることが勝手に叶えられていくこの頃。疲れの取れない重い体に反し、心はどんどん浮遊していく。楽しい。
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