漫歩台南 vol.2
鳥のさえずりに浮遊する
聴いたことのない鳥のさえずりで目がさめる。響きからしてすごい数である。一つ一つの声は水がちろちろと流れているような澄んだ音なのだが、それらが一斉に途切れることなく聴こえてくるので川のせせらぎのよう。ベットの上でぼんやり目を開ける。みずみずしい鳥の声に包まれて、体が水面に浮かんでいるような浮遊感に浸る。
どんな鳥がどこで鳴いているんだろう、とベランダに出てみる。じっと目を凝らすがその姿は見えない。目の前に公園があり、立派なガジュマルの木が何本か生えているのでそこにいるのだろうか。空は完全に明けていない。底からほんのりと白んでいる曇り空に、鳥のさえずりだけがこだまする。
部屋に戻り、またしばらくベッドに寝転がる。まだ6時前である。日本だと7時なので、順当な時間に目が覚めた。宿の部屋は映画のセットかと見まがうほどにレトロでキュート。台南のとあるエリアには、古いアパートの建材をそのまま残し、その古き良き内装を売りにした宿が集まっているよう。そこで、せっかくだしと台湾でしか泊まれないような宿に泊まることにした。値段は全然キュートではないのだが、それらの中でも唯一部屋が残っていた宿はそんなに高くなかったので、どんなもんだろうと予約してみたのだった。
昨晩どきどきしながら部屋に入ったとき、あまりにも可愛い内装に、思わず小躍りをしてしまった。ベランダからは、目の前の小さな公園と、昔ながらの住宅街が見える。遠くには高いビルが数本並んでいる。まるで長年台南に住んでいるかのような建物の古さと立地で、この宿にしてよかったとうれしくなる。
おいしくてラッキーな「八」
昨日は宿にチェックインしたあと、夜ご飯を食べに夜市に行ってみた。宿から歩いて30分。台南はバスか自転車でまわるのがよさそうな都市だが、今回は何も急ぐ必要がないので、基本すべて徒歩で巡る。
夜市で台南名物の蚵仔煎を食べる。蚵仔煎とは、牡蠣入りのお好み焼きのようなものである。味がとにかく薄い。思ってたんと違う。夜市は、じりじり歩くのも精一杯なほどにたくさんの人で混み合っていたので、牡蠣だけ食べてそそくさと離れる。夜市に向かう途中でいかにもおいしそうな佇まいの甘味処を見つけ、あとで時間が合えば寄ってみようと思っていた。帰り道に歩いて向かったら22時近くになってしまったが、幸いにもお店は開いていた。メニューを見るとかき氷やさんだった。日本では見たことのないかき氷ばかりだったが、どうやら一押しは八寳冰という、よくわからない具材があれこれのったかき氷のようである。ビジュアル的に全く美味しそうには見えなかったが、八寳というなんだか滋養みなぎる名前に惹かれて頼む。いい加減元気になりたい。
メニューの読み方がわからず、文字のイメージで適当にそれっぽく発音してみる。なぜか通じる。店員に瞬時に言い直されたその漢字は、韓国語の音読みとかなり似ていた。ああ、韓国も日本も台湾も大陸と地続きなのだ。2つの言語を使えるようになってから、それらの地域が深く共振していた古を言葉から時折感じるときがある。時間と空間が今なお繋がっている。何も知らないのに読めてしまう音に出会う一瞬、私の人生とは交わるはずのなかった壮大で遥かな歴史が私の中をふっと通り過ぎていく。「言葉が時空の帳を破る」。
野外のテーブルに座って、通りを見ながらかき氷をしょりしょり食べる。渡されたかき氷は真っ白な氷がこんもりと盛られているだけである。どういうことだ?と思って一口すくったら、中にいろいろはいっていた。福袋みたいなかき氷だなと思いながら、いろんな食感を楽しむ。甘さが控えめでとても美味しい。豆がやたらに入っていて体にもよさそうである。疲れた体に氷の冷たさが気持ちよい。生ぬるい風が氷に触れて溶けていく。
仏教に由来する言葉である「八寳」とは8種類という意味ではなく、「たくさんの」という意味である。八宝菜のように料理名に八がある場合は、とにかくいろんな具材が入っているということを表している。日本も中国も八は縁起のよい数字として愛でられている。そして台南(に限らず台湾全域かとは思うが)には、八のついた名物料理がいくつかあって、それらがどれもとても美味しかった。8月生まれなのと、丸が2つくっついているフォルムが可愛くて8という数字が一番好きなのだが、台南はいろいろと私の好みに合うところだなあと能天気に解釈できるぐらい心に余裕が戻ってきた。
あてどなく路地をさまよう
宿に戻る前に適当にあちこちの通りを散歩していたら、ある小路で小さな黒猫2匹と目が合う。ちんまりとこちらを見ている。かわいい黒猫に誘われるように付いていくと、行き止まりだと思っていた小路の横に狭い路地が続いている。その入口には、黄色や赤、水色、群青といったビビッドなタイルで彩られた搭のような謎の宗教的モニュメントが一つ。路地の門番のように佇んでいる。
折れ曲がっていて先が見えない細い路地に足を踏み入れてみる。壁際や塀の上の所々に古今東西の我楽多や呪術的なものが置かれている。その間を縫うように雑草なのか植木なのかわからない緑が壁に沿って生い茂る。木々が覆うクリーム色の壁には、タトゥーのように赤いシンプルなラインでなにかが描かれている。歩きながらそのラインを目で追うと、どうやら巨大な花のようである。世界観がわからない。それらすべてが薄暗いオレンジの街灯に照らされている。このまま進むとどこにたどり着くのか、異世界に誘われているよう。黒猫2匹はいつの間にかどこかに消えてしまった。
台南の中心地は、ひとつ道をそれると全く違った風景が現れる。車が行き交う大通りから逃れるように裏道に入ると、ひっそりとバーの明かりだけが灯る通りが出てくる。恋人たちがそのほんのりとした暗闇を慎ましく歩く。また一本それると、樹齢何年なのか巨大なガジュマルがそばだち、その周りで男たちがなにやら武術らしきものの練習をしている。二人一組になり、昔のカンフー映画にでてくるような長い木の棍で打ち合っている。トーン、トーンと木がぶつかり合う乾いた音が巨木のまわりに響く。
次は何に出くわすかわからない小説のページを夢中でめくるように、足の赴くままにいろんな通りを歩く。どうしてこんなに歩いているんだろうと思いながら歩き続ける。旅先でも日常でも、目的なく歩くことが本当に好きである。論文を書いていた時も、行き詰まったらよくふらふらと歩きにいっていた。仕事ばかりしている今も、疲れたらひとまず歩きに出かける。自転車もバスも電車もできるだけ乗りたくない。それは、早くどこかに向かうことよりも、ひとつひとつを目を凝らしながら見つめて歩くほうに魅かれるからである。次々と通り過ぎる疾走の風景ではなく、早く通り過ぎなかったからこそ捉えられる静止した美しさを切り取りたい。そこには必ず思考が介在する。私が今これを見出しているというちっぽけな全能感が楽しいのかもしれない。
宿に着くと、万歩計には32167歩と表示されていた。これだけ歩いたのは本当に久しぶりである。シャワーを浴びて落ちるように眠る。