「討論会」と哲学対話
私は大学で哲学対話についての授業を受けている。その授業の中で「とある意見について、受け入れられないなら受け入れないで「なぜ受け入れられないのか」を考えれば観察者ではなく参加者になることが出来る」、というフレーズがとても印象に残った。
私は推し事をするためにtwitterを普段から利用しているが、私が所属している界隈では頻繁に「討論会」が発生している。「○○についてはああするべきだ」「××するべきではない」など、推し活の方法について様々な意見でタイムラインが埋め尽くされることが少なくない。そして私は、この授業で扱っているような哲学対話が好きであるというのを前提としたうえで、その「討論会」がとても苦手だ。タイムラインで「討論会」が始まりそうな雰囲気を感じたら即座にアプリを落とすか、敢えて空気を読まず明るい話題を投げ込んでいた。今までは深く理由を考えずに毛嫌いしていたが、改めて考えたところ2つの理由が頭に浮かんだ。まず、攻撃的な言葉が多いということ、そして、自分以外の意見を批判するのではなく否定している人が多いということだ。
ここで冒頭のフレーズに戻るが、最初に観察者、参加者について聞いた際、私は観察者であるから厳しい視点で「討論会」に参加している人達を見てしまうのかと受け止めた。しかし、私はになぜ「討論会」が受け入れられないのかという理由を認識しているし、「討論会」で話し合われている議題について全く意見が無いわけではない。つまり、自分は既に参加者だったのだ。
以上の点を自分で認識したところで「討論会」への苦手意識は変わらないし、「討論会」自体をどうすることもできない。しかし、「一つの論点について話す」という点では同じである哲学対話は受け入れられるのに「討論会」は受け入れられない理由が自分の中で明らかになった。「否定しない」「攻撃的な言葉を使わない」という点だ。これは哲学対話や「討論会」の場に限らず日常でも良いとされることである。完全にこれを徹底することはかなり困難であるとは思うが、意識せずともこのスタンスでいられる素敵な人間になりたい。
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