シーライオニングの謎|オープン・クエスチョンの隠れたリスク
こんにちは、ヒポポタマスです。
好きな少女漫画は『ラブ☆コン』です。
先日、以下の記事を公開いたしました。
ほぼ初めてのnote執筆にも関わらず、様々な方にご感想・ご意見をいただき、嬉しく思います。読ませていただいたツイートは全て「いいね」を、記事をシェアしてくださったツイートは全て「いいね&RT」をさせていただきました。
前記事での結論は、以下の通りです。
以上のことから、議論や批判において第一手目に置くべきは「問い」ではあるが、その「問い」は「想像して組み立てた相手の論理」もしくは「想像した相手の内心」をワンセンテンスで「確認」するものであるべきだ、というのが私の主張です。
この結論へ至る論旨を読みたい方は、ぜひ前記事をご覧ください。実例というエビデンスつきで、論を展開させていただいております。
本稿は、前記事の結論を踏まえた論考です。
先に本稿の結論を述べさせていただくと、以下の3点となります。
1) 相手の「言語化」スキルを信用できない段階でオープン・クエスチョンを使うと、議論自体が「結局、ムダで意味のないもの」になる多大なコスト支払う可能性があり、さらにそのコストを支払ったことに気づけないというリスクを背負う
2) クローズド・クエスチョンは質問者に「相手の論理を想像して組み立てる」「相手の内心を想像する」「想像した相手の論理・内心が的外れで議論がわずかしか進まない」とコストがかかるが、これらは上記のコスト・リスクを避けるための「コストの先行投資」である
3) 議論あるいはイデオロギー闘争において「勝利」のみを目指すならば、上記2つの結論は何の意味も持たず、無視してもよい
その他、「質問の回答拒否への対応」と「そもそもなぜ、シーライオニングというレッテル貼りが流行ったのか」という謎について論じています。
さぁ、それではいってみましょう。
1. 青識さんのコメントに関して
まずは、青識亜論さんのコメントから。
青識亜論さん。私の記事を読んでコメントしてくださり、ありがとうございました。この場を借りてお礼を述べさせていただきます。
さて、青識さんのご意見に関して、私の意見を2つ述べさせていただきます。反論というよりは、青識さんの意見を踏まえた上で「では、どうするか」というものです。
まず、1つめ。
「決めつけるな、不勉強だ、対話の価値なし」という返答は「あなたの言っているのは○○だと思うが、合っているか?」に対する明確な「否定」です。つまり、「私が言っているのは○○ではない」となり、わずかでも議論が進んでいます。
「はい」「いいえ」で答えられるクローズド・クエスチョンでの問いかけは、相手がいかに乱暴で不遜な態度であったとしても、その言葉が「否定」ならば回答として受け取ることができます。
相手は「対話の価値なし」と評しているので、無理に議論を続ける必要はありません。「なるほど、○○ではないということなんですね。分かりました」と1つ答えを得て、さっさと議論を終わらせましょう。
2つめです。
「あなたの言っているのは○○だと思うが、合っているか?」に対して、例えば「シーライオニングやめろ!」のようなレッテルを貼られ、回答そのものへの拒否をされた場合。
質問に対して「肯定」も「否定」もせずレッテルを貼ってくる相手は、それこそ「対話の価値なし」です。Twitterには他にも議論できるアカウントがたくさんいます。あなたの大事な時間を、対話の価値がない相手に費やす必要はありません。
2. 「シーライオニングするな!」が流行った理由
そもそも、なぜ「シーライオニングするな!」というレッテル貼りが流行ったのでしょうか。「シーライオニング」というレッテルの使用者たちは何を思ってそのような行動を取るのでしょうか。
理由は3つ考えられます。
まず、「主張している内容にそもそも正当な根拠が無いため、聞かれても答えられない」ことを誤魔化す意図があるでしょう。さらに、「シーライオニング」という言葉でイデオロギー的な敵対者を攻撃したいという意図もあるでしょう。
まさに、攻守一体。効果的かどうかは、さておき。
次に、「質問の否定的ニュアンス」を明示する意図があったのではと推測できます。「なぜ、そんな主張をするのか?」という質問は、「あなたの主張は的外れだ」という否定的なニュアンスを含みます。この現象は、質問者に否定の意図が全く無かったとしても起こります。
ゆえに、質問行為に対して「それは攻撃とも受け取れるぞ!」という意味合いで「シーライオ二ングだ!」と言うのです。
もちろん、質問行為に対して「シーライオニング」というレッテルを貼ることが正当とは言えません。ただ、このレッテルの使用者にとっては「便利」ではあったのだろうと思います。
「質問の否定的ニュアンス」については、『【改訂版】青識亜論への反論|シーライオニングの誤謬』にて詳しく論じておりますので、よかったらご覧ください。
最後に、「質問に回答すること自体がリスクであるから」という理由が考えられます。このリスクは、オープン・クエスチョンへの回答時に発生します。
詳しくは、次の章で論じます。
3. オープン・クエスチョン|回答者のリスク
質問者が「なぜですか?」「どうしてですか?」というオープン・クエスチョンで問いかけ、回答者が「明確な主張を持っているが、うまく言葉にする自信がない」とき、回答者は「なんとか言葉にしてみること」すら試みずに回答を拒否する可能性があります。
回答者の立場に立って考えてみましょう。
自分の考えをしっかりと「言語化」できれば問題ないのですが、議論に慣れていない人間が「言語化」を行うと、「言語化する前の思考」と「言語化に失敗した言葉」にズレが生じます。
下手に「言語化に失敗した言葉」を提示して反論を受けたならば、その反論が「言語化に失敗した言葉」に対する反論としては適切だったとしても、「言語化する前の思考」に対する反論としては的外れとなり得るのです。
ここで、「言語化する前の思考」を改めて「言語化」し直して再反論を行ったとしても、「最初に言ったことと違うじゃないか」と批判されがちです。ならばと「最初に言ったことは正確には違っていて……」と弁解しようものならば「ゴールポストを動かすな!」と責められる可能性があります。
つまり、議論に慣れておらず「言語化」が未熟な者にとって、オープン・クエスチョンへの回答は余計な批判のリスクが伴うのです。
「シーライオニングをやめろ!」という不当なレッテル貼りは、オープン・クエスチョンの回答リスクを避けるために行っている……という側面があるのではと推察します。
4. オープン・クエスチョン|質問者のリスク
さて、改めて前記事での私の結論を見てみましょう。
以上のことから、議論や批判において第一手目に置くべきは「問い」ではあるが、その「問い」は「想像して組み立てた相手の論理」もしくは「想像した相手の内心」をワンセンテンスで「確認」するものであるべきだ、というのが私の主張です。
この「確認」について、コストの面から指摘するコメントをいくつかいただきました。
* 「想像した相手の内心」や「想像して組み立てた相手の論理」はハズれる可能性が高く、コストが高い
* オープン・クエスチョンで問いかけた際に回答者が答えるコストを、質問者が肩代わりしているだけではないか?
* 結局「どういうこと?」と問いかけて最初から相手に話してもらった方が、手っ取り早いのでは?
これらの指摘は全て妥当です。クローズド・クエスチョンはオープン・クエスチョンに比べ、質問者にコストがかかります。さらに、質問時に組み立てた「想像して組み立てた相手の論理」「想像した相手の内心」は往々にして的外れになりがちです。
しかし、それでもなお私は、議論や批判における第一手目はクローズド・クエスチョンによる「確認」であるべきだと主張します。
この主張は「質問する側がコストを支払うことによって誠実性を示せるから」という倫理観によるものではありません。「質問者に低コストなオープン・クエスチョンは、最終的に多大なコストとリスクになる可能性があるから」という理由です。
本稿の3章にて、議論に慣れていない人間が「言語化」を行うと「言語化する前の思考」と「言語化に失敗した言葉」にズレが生じる可能性がある、と論じました。
オープン・クエスチョン自体は質問者にとって低コストです。しかし、回答者の「言語化に失敗した言葉」をもとに議論が進めば、その議論全体が「結局、ムダで意味のないもの」になるという多大なコストとなるのです。
さらに、質問者はオープン・クエスチョンで得られた回答が「言語化に成功した言葉」なのか「言語化に失敗した言葉」なのか判別できません。つまり、その議論が「結局、ムダで意味のないもの」だったことに気づけないのです。
支払ったコストに無自覚であるというのは、リスクと言えるでしょう。
青識さんのような、高い学歴の大学を卒業されて議論にも精通している方は「言語化」にも慣れていることでしょう。しかし、Twitterで議論する相手が必ずしも「言語化」が得意だとは限りません。
オープン・クエスチョンは、議論を重ねる中で「この相手は十分な言語化能力を持っている」と回答者を信用してから使うべきです。回答者が相応の「言語化」スキルを持っていて初めて、オープン・クエスチョンでの問いかけは議論として成り立ちます。
相手の「言語化」スキルを信用できない段階でオープン・クエスチョンを使うと、議論自体が「結局、ムダで意味のないもの」になる多大なコスト支払う可能性があり、さらにそのコストを支払ったことに気づけないというリスクを背負ってしまうのです。
対して、クローズド・クエスチョンで相手に問いかけた「想像して組み立てた相手の論理」「想像した相手の内心」が的外れであっても、「これらの想像は誤りであった」という回答が得られ、わずかでも着実に議論は進みます。
議論自体が「結局、ムダで意味のないもの」になり、さらにそれに気づけにない……という事態に陥るよりも遥かにマシでしょう。
クローズド・クエスチョンは質問者に「相手の論理を想像して組み立てる」「相手の内心を想像する」「想像した相手の論理・内心が的外れで議論がわずかしか進まない」とコストがかかりますが、これらは多大なコスト・リスクを避けるための「コストの先行投資」なのです。
以上より、シーライオニングをするならば最初は面倒でもクローズド・クエスチョンを使用すべきです。シーライオニングをする過程で相手の「言語化」スキルを信用できてから、オープン・クエスチョンに切り替えるのが良いでしょう。それが結局はコスト削減、リスク回避に繋がります。
ぜひ、より良いシーライオニング・ライフをお送りください!
5. 「勝利」を目指す方へ
さて、ここまで読まれてこう思われる方もいらっしゃるのでしょうか。
「オープン・クエスチョンで問いかけて、回答者が『言語化』に失敗したのならば、それは回答者の責任だろう。回答者を責めるべきだ」
「"イデオロギー的な敵対者(ここにはフェミニスト・ミソジニスト・ネトウヨ・パヨクなど、任意の属性を入れてください)"とは、既に議論する段階を過ぎている。議論はムダだ」
これらの意見に、私は同意できません。しかし、同意できない理由は「論理的に誤っているから」ではありません。これらの意見は妥当だと思います。しかし、私とは立場が異なるのです。
前記事にて、私は議論の目的を以下のように定義しました。
まず、議論の目的を「合意を得ること」と定義します。これは「どちらが正しいかを決める」ではなく、「お互いの主張を理解し、譲り合えないラインを認識する」を意味します。
私の主張は、この定義を前提とした主張です。
議論によって「お互いの主張を理解し、譲り合えないラインを認識する」ことを目指すならば、相手の「言語化」スキルを信用できない段階ではオープン・クエスチョンを使うべきではなく、クローズド・クエスチョンを使うべきだ、と主張しています。
もしも、議論の目的を「議論に勝利すること」とするならば、私の主張は意味がありません。
オープン・クエスチョンで問いかけ、相手の回答が「言語化に失敗した言葉」だとしてもそれに反論し、「いや、そうではなく……」と再反論されたら「最初に言ったことと違うじゃないか」と批判し、「最初に言ったことは正確には違っていて……」と弁解したなら「ゴールポストを動かすな!」と責めればいいのです。
そうすれば、議論に勝てます。
また、「イデオロギー闘争による勝利」を目指すのならば、やはり私の主張は意味がありません。議論以外にも、有効な政治的手段・広報戦略はいくらでもあります。
Twitterで「"イデオロギー的な敵対者(任意の属性を入れてください)"の主張には一切の根拠が無く、ダブルスタンダードを平気で行い、個人を集団で叩くネットリンチをし、厚顔無恥な迷惑行為を繰り返し、それでいて被害者意識が過剰な、まさしく差別主義者だ」と声高に喧伝しましょう。
さらに、共感を得られるツイートでいいね&RT稼ぎ、フォロワー数を増やしましょう。引用RTやスクリーンショットを使って、敵対者の失言を衆目に晒せば完璧です。
議論あるいはイデオロギー闘争において「勝利」のみを目指すならば、私の主張は何の意味も持たず、無視してもよいと思います。
生き方は人それぞれです。
もしも、あなたが議論によって「お互いの主張を理解し、譲り合えないラインを認識する」ことを目指してくれるのならば、その上で私に意見をくださるのならば、その意見が「同意」であっても「批判」であっても、大変に喜ばしいものだと感じます。
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