青識亜論への反論|シーライオニングの誤謬
本稿は、Twitterで3万4,000人ものフォロワーを有するネット論客「青識亜論」さんが執筆したnote記事『正しい「シーライオニング」のススメ』に対して、真っ向から反論を構えるテキストです。
なお、本稿の公開後に「長い」「読みづらい」「着眼点は良いのにもったいない」というご意見を多数いただいたため、論旨に関係ない文章を排除して文章量を6割にまで減らした【改訂版】を執筆いたしました。
よろしければ、こちらをどうぞ。
「論旨とかどうでもいいから、暇つぶしに長い文章が読みたい!」という方はこのままお進みください。
さて、改めまして。
本稿は青識亜論さんに反論する記事です。
・青識亜論さんが提示する「議論の作法」には誤りがある
・私が代替案として提示する「Twitter議論の作法」
・間違ったシーライオニングしてんじゃねーよ青メガネ
以上、3点でお送りします。
ちなみにタイトルに「誤謬」とつけておりますが、「誤り」をカッコよく言ってみたかっただけです。深い意味はありません。そこをツッコまれると恥をかきます、主に私が。
全7章からなる本稿ですが、公開直後に速攻で「なげーよ!!」とご意見をいただきました。でも、大丈夫! 時間が無い方、読むのが面倒くさい方は6章だけ読めばOKな親切設計です。下記の「目次」から6章に飛べます。便利!
時間をムダにしたい方だけ、1章から順番に読んでください。
さぁ、それではいってみましょう。
1. 自己紹介
こんにちは。
ヒポポタマスと申します。
好きなゲームは『ロックマンDASH』
そう、あのCOPCOMの名作『ロックマンDASH〜鋼の冒険心〜』にて、ジャンク屋さんに名前を聞かれたときの選択肢で、興味本位で「ロック」ではなく「ヒポポタマス」と選んでしまったのです。
その後のシナリオにおいて終盤までずーっと「ヒポポタマス」と呼ばれ続けることになり、激しい後悔と共に「選択」という行為の重要性を心に刻んだのも今では遠い昔の話。
『ロックマンDASH2〜大いなる遺産〜』では、前作で必死の思いで稼いだディフレクターの賜物である強化武器。しかし、今作は「消火器」というロックバスターですらない所帯じみた初期装備で始まりました。
続きモノであるが故に避けられない「前作の装備、どうなったの?」という至極順当なる疑問を、ロールちゃんは「ごめんね、ロックの装備、全部売っちゃった!」という一言で解消しました。シナリオの整合性を力づくで図る制作陣の豪腕な手腕に舌を巻いたものです。
一時期はロールちゃんのような天才メカニックに憧れて、工学科に進学しようか本気で迷ったものです。やめたけど。
私は未だに『ロックマンDASH3』を待ち望んでいます、CAPCOMさん。
「はよ、本題に入れ!」と関係ない話に辟易としている方もいらっしゃるかもしれませんが、これには意図があるのです。いや、ホント。文章の手癖への言い訳じゃなくって。本当だって。
その意図とは、本稿が「ムダの重要性」について説くものであることに起因します。また、本稿そのものが青識亜論さんの「わかりやすい文章」に対するカウンターでもあります。決して、私が「ネタを挟まないと○んじゃう病」をこじらせているわけではないのです。
ここで、知る人ぞ知るマイナーな漫画『ドラゴンボール』から、登場人物の人造人間たちの会話を引用させていただきます。
人造人間16号「飛んでいけばほんの数分で着く……」
人造人間18号「だよね! あんたいいこというよ それをわざわざクルマで行くなんてムダなことをさ」
人造人言17号「なんどもいうなよ そのムダが楽しいんじゃないか」
多くの方は『ドラゴンボール』をご存じないと思われるので補足をさせていただくと、物語の途中から「気」と呼ばれる体内エネルギーを利用して「飛ぶ」ことが登場人物の間で当たり前の技術となります。
すなわち、この会話で出てくる「飛ぶ」とは、航空券を予約して空港から飛行機に搭乗することではなく、生身の身体のまま「飛ぶ」ことを意味するのです。しかも、めっちゃ速い。
そりゃ、車で移動するのは「ムダ」と言っても差し支えないですね。16号と18号の気持ちも分かります。にも関わらず「そのムダが楽しいんじゃないか」と説く17号からは、「人生、お金が全てじゃないよ」とほざきやがる富裕層のような貫禄を感じます。
飛べば、三密も避けられる。
ところで、なんで「乗車」「乗船」「乗馬」と他の乗り物では「乗」の漢字が単語の前に来るのに「搭乗」だけ単語の後ろなのでしょうか。私、気になります。
……調べてみたところ、どうやら運送の規則上では「乗機」という単語を用いるそうです。「搭」自体に乗り物にのる・のせる・積み込むなどの意味があり、すなわち「搭乗する」とは「自分自身を搭乗"させる"」とも言えるとのこと。
へぇー、なるほど!
確かに「搭」を用いた他の単語で「搭載」って言いますもんね。また1つムダな知識が増えました。思わず「へぇ」ボタンを押したくなりますね。
『トリビアの泉』の放送当時、公式サイトから「へぇ」の効果音をダウンロードして携帯の着信音に設定するというのは、誰しも通る道だと思います。好きな人にメールで告白して「へぇ」の着信音とともに振られたのも青春の1ページ。
嘘です。話、盛りました。私に「へぇ」の着信音と共に届いたのは姉からの「うざ」という2文字だけの簡素なメールです。データ容量にして6バイト。ダル絡みし過ぎるとこうやってあしらわれます。
私は、そんな姉が大好きです。
2. シーライオニング
説明するのが面倒なので、青識さんのnote記事(以下、青識亜論によるアシカ論、略して『青識ア論』と表記)をご覧ください。また本稿は、この『青識ア論』に対する反論となります。
私が反論する部分は「正しいシーライオニング、不誠実なシーライオニング」の章です。この章にて、青識さんはこう述べています。
この種の議論や批判において、第一手目に自らの主張ではなく、「問い」を置いたほうがよい理由は、私が考える限り二つある。
この二つのうち、一つが間違っています。そしてその誤りは、過去に青識さんが『#これフェミ』でやらかした過ちでもあります。
ああ、懐かしきかな『#これフェミ』……フェミニストと表現の自由戦士の夢の対談イベント。両者が手と手を取り合って進む未来を夢見たものでした。もう、あれから50年もの月日が経つのですね、早いものです。私もすっかり老いてしまいました。
まさか、あれが歴史の転換点になるとは思いもしませんでした。
今では地球の木々は枯れ、土地はすっかり荒廃してしまいました。そんな世界を変えるべく、私はバイオテクノロジーによる若返りの手術を施した上で、「電話レンジ(仮)」をSERNの大型ハドロン衝突型加速器へ接続してタイムリープを起こし、50年後の未来からやってきたのです。
時をかけるカバちゃん。
しかし、何度繰り返しても「世界線の収束」によって『#これフェミ』にシュナムルさんは参加せず、勝部元気さんは発言せず、石川優実さんは否定的なブログを書いてしまいます。世界線変動率1%台、β世界線への道はあまりに険しい。
3-1. 青識亜論の誤り
① 批判者の使っている用語の定義や主張の論理があいまいであること
青識さんが誤っているのは、この項目です。以下、順次見ていきましょう。まずは項目の文章を全文引用します。
「エロ匂わせ表現」にせよ「差別主義者」にせよ、その定義はきわめて曖昧である。いきなり「私は差別主義者ではない」とか「私が定義するエロ匂わせ表現は公共の場においてもかまわないものだ」とこちらから主張した場合、同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっているということになりかねない。
さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。
これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。
ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。
ふむ、それっぽい。いかにもそれっぽい。一部の隙もなさそうな論理展開。さすがはネット論客。ですが、ここには間違いがあります。その間違いを謎の説得力で包み込むのが青識マジック。これをとある界隈では「論圧」と呼ぶらしい。ブリーチかよ。
それでは上記の引用部分を、順番にネチネチと検証していきましょう。
「エロ匂わせ表現」にせよ「差別主義者」にせよ、その定義はきわめて曖昧である。いきなり「私は差別主義者ではない」とか「私が定義するエロ匂わせ表現は公共の場においてもかまわないものだ」とこちらから主張した場合、同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっているということになりかねない。
非常によく分かりますし、同意します。両者が同じ単語を使っていても意味が異なるというのはよくあります。本当によくあります。『#これフェミ』でもこの事態は起きました。青識亜論さんが述べた「言語化」と、石川優実さんが述べた「言語化」の意味がまるで違っていた。
石川優実さんの「言語化」は単純に「言葉にする」ということを意味していました。対して、青識亜論さんの「言語化」は、言うなれば「定義化」に近いものを意味していました。なので、
青識「言語化してください」
石川「やってみます。〜〜〜ということ、かな」
青識「いや、ちゃんと言語化してくださいよ」
石川「は? 言語化してんじゃん。意味わからん」
というすれ違ったやり取りが起きてしまったのです。
(セリフは適当。確かこんな感じだった気がする)
これは当時の『#これフェミ』後の石川優実さんのブログ記事を読めばよく分かります。
http://ishikawayumi.jp/entry/2019/11/18/133232
って、オイィィィィ!!!
「ページが見つかりません」になっているじゃねぇかァァァァア!!!
なにが「これは当時の石川優実さんのブログを読めばよく分かります」だよ!?? ドヤ顔かましちゃったよ恥ずかしい!!! 肝心のソースが 404 not found だよ!!!
はぁー、つらみざわ。
3-2. 「確認」の欠如
さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。
「嘘である!!!」
いや、青識さんは嘘ついているわけではありません。義務教育過程で必修科目となった『ジョジョの奇妙な冒険』単行本第四巻あとがきで荒木飛呂彦先生も「おとなはウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです……」と仰っています。
そう、「嘘である」って言ってみたかっただけ。私が『かぐや様は告らせたい』のファンなだけ。
ナレーション役の青山穣さん、アニメ1期が始まった当初はTwitterで「ナレーションが大げさ」「合ってない」「イメージと違う」と否定的な声もちょこちょこ見かけましたが、今ではすっかり定着した感じ。
2期終わっちゃって寂しいなぁ……3期やらないかなぁ……。
『かぐや様は告らせたい』の原作はヤンジャンアプリで1話60円で読めますが、カラー版の漫画はなんと1日1話無料で読めるのでめっちゃおすすめです! あとキングダムも今なら1日1話無料。大盤振る舞いかよヤンジャン、すげーなマジで。
あ、アフィリンクとかじゃないです、念のため。
ただの布教活動。
ちなみに、「嘘である!!!」じゃなくて「嘘だといってよ、バーニィ」や「嘘だッ!!」とも迷ったのですが、トレンドを重視していこうと思っている今日この頃です。ほら、価値観をアップデートしているので。
ところで、Twitterだとちょっとした勘違いツイートも「嘘」「デマ」って決めつけて引用RTする風潮が流行っていますよね。みんなギスギスし合っていて、とても楽しそうです。
SF世界のディストピアって、今この時代・この瞬間なんじゃないかなっていつも思っています。そう、私は現代の『1984年』の登場人物、そう思えばTwitterのクソみたいなレスバが映画のワンシーンに見えて……こないな。こないわ。
というわけで、引用部分は間違っています。
なぜか?
どこが?
「相手の論理をこちら側で想像して組み立て」と「想像上の相手の主張に反論」の間に「確認」という大事な工程が抜けているのです。これを覚えておいてください。続きにいきましょう。
3-3. 「過失による藁人形論法」の防止
これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。
「私たちはエスパーではない」という点は果たして本当でしょうか。必ずしも全ての人間がエスパーではないとは限りません。エスパーの人間もいるかもしれない。それを「私たちは」というクソデカ主語で勝手にひとくくりにして、決めつけないでいただきたい!
……冗談です、ヒポポタマス・ジョーク。
そういえば、筒井康隆さんの七瀬三部作、第一作『家族八景』と最終作『エディプスの恋人』は読みましたが、『七瀬ふたたび』だけ積ん読していたなぁ……あれは超能力者(エスパー)じゃなくて精神感応能力者(テレパス)か、でも違いがイマイチ分からない。
映画『時をかける少女』が大ヒットした影響で、アオハル的なものを求めて筒井康隆さんの小説に手を出したキラキラ少年少女たちが、エログロバイオレンスの極みに直面して阿鼻叫喚の嵐を巻き起こす様を見ているのは非常に愉快でした、ははは。
で、「往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう」という部分。ここですよ。ここ。
そもそも「藁人形論法」とは何か。もし知っていても、定義は大事。何度でも確認しましょう。Wikipedia先生、お願いします!
ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す[1]。ストローマン手法や藁人形論法ともいう。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ふむふむ、なるほど……Twitterでよく見る光景ですね!!!
ただ、今回の場合、『青識ア論』で展開されているのは藁人形論法に「陥ってしまう」ケースです。それは悪意ではなく、ミスによって生じるもの。ミスによって生じるものは現場猫よろしく「ヨシ!」と確認すれば防げます。たぶん。
そう、確認が大事なのです。つまり……
「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」
ではなく、
「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からで合っているか?」
と一旦センテンスを切り、相手への「確認」を挟むべきなのです。これはクローズド・クエスチョンであり、相手は「はい」「いいえ」で答えられます。ここで合意が取れた後に、次の「反論」のフェーズに進むべきです。
A「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からで合っているか?」
B「Exactly(そのとおりでございます)」
A「しかしそれは不当だ、なぜならば……」
このように、「確認」を取っていくことでエスパーでなくても「同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっている」という事態を防ぐことができます。
テレンス・T・ダービーはスタープラチナにぶっ飛ばされたけどな。
さて、「確認」をしたときに回答が「Yes!! Yes!! Yes!!」の場合は議論がスムーズに進みます。では、回答が「No!! No!! No!!」の場合はどうでしょうか。
3-4. 「クローズド・クエスチョン」の優位性
これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。
「これは不誠実であるばかりでなく」の部分、前述の通り「確認」を挟む方法ならば過失による藁人形論法は起きません。つまり、誠実姓の問題は既に解決済み。
次。
「相手に否定する労を取らせる」ことは事実です。しかし、「かえって不経済となる」が間違っています。否定する労を取らせることは取らせるのですが、青識さんが比較対象として提示している案の方が「より多くの労を取らせる」ことになり、より「不経済」だからです。
青識さんの提案は以下の通り。
ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。
「最初から『あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください』と問う」方法が、なぜ「不経済」なのか。
まず、前述した「確認」を取る方法は必然的にクローズド・クエスチョンになります。「もしかしてオラオラですかーッ!?」のように「はい」「いいえ」で答えられる質問の仕方です。
そして、青識さんが提案している方法はオープン・クエスチョンです。「なぜ?」「なに?」「どこ?」「いつ?」「どうやって?」など、答える側が幅広い回答をできる質問の仕方です。「レムって、誰のこと?」はオープン・クエスチョンとなります。
「ちょ、ちょっと待ってくれエミリアたん。クローズド・クエスチョンを投げかけても、それがトンチンカンな質問だったら、『私はそのようなことを言っていない。私が言っているのは……』と説明し直さなきゃいけないから、やっぱり不経済なんじゃないか?」
ところがどっこい! そうとも限らないのです。……「ところがどっこい!」って今日び聞かねぇなぁ……リゼロ2期、始まりましたね。楽しみです。異世界転生モノって色んな設定や世界観があってとっても楽しいですよね!
ちなみに、私が好きな異世界転生モノは1994年に出版された村上龍さんの代表作『五分後の世界』です。
さて、どちらがより「不経済」か。オープン・クエスチョンの場合は「イチから――いいえ、ゼロから」説明しなければなりません。対して、クローズド・クエスチョンの場合は「相手が自分の言葉をどのように間違えて捉えたのか」という「事前情報」を得ることができるのです。
「事前情報」があれば、より精度の高い回答を行うことができます。この差は大きい。
3-5. 回答しやすい質問とは?
想像してみてください。あなたが会社員であるとして、自分の上司にオープン・クエスチョンで「なぜこんなことをしたんだ?」と聞かれることを。
または、クローズド・クエスチョンで「おそらくこういう意図でこんなことをしたんだと思うんだが、合っているか?」と聞かれることを。
どちらがより回答しやすいでしょうか。
どうですか?
はい。うん。なるほど。
まぁ、最終的には「ぶっちゃけ、人による」のです。笑
ここまで説明しておいてなんですが、オープン・クエスチョンの方が答えやすいって人もいますし、クローズド・クエスチョンの方が答えやすいって人もいます。
なので、クローズド・クエスチョンの方が回答の際に「事前情報」のアドバンテージがあるとはいえ、この時点で「青識さんが提示するシーライオニング法は間違っている」と言い切ることはできません。
では、別の観点からも考えてみましょう。
4-1. Twitterという特殊な環境
かの有名な物理学者アインシュタインは、一般相対性理論にてこう述べました。
「Twitterでレスバしても議論にならない」
ところで、一般相対性理論の方が特殊相対性理論よりも難しいってこと、知っていましたか? 特殊相対性理論は「特殊な状況に限定された」理論であり、一般相対性理論は加えて「重力」「加速度」の要素が入ってきます。
論文が公開されたのも、まず簡単な方の特殊相対性理論、それから難しい一般相対性理論なのです。特殊相対性理論は中学生でも分かる内容なので、興味がある方はぜひ調べてみてください。
あと、アインシュタインは恋愛関係は割とクズだったってエピソードも面白いのでついでにどうぞ。
とっても楽しいツイッターランド。
「Twitterは議論に適していないSNSである」という言説に異論がある方は少ないでしょう。1ツイートに140字しか書き込めない。正当性よりも共感を得たツイートがいいねとRTを稼いでバズる。
引用RTは主にフォロワー数の多いアルファアカウントに「こいつ意味わかんねぇこと言ってやがる!」と言わんばかりに「晒す」用途で主に使われている。
自分の好きなアカウントだけフォローすることによってエコーチェンバー現象が発生、加えてブロック機能を多様する人はますます思考が偏執的になっていく……。
さて、このTwitterという特殊な環境下で、議論における「不経済」とは何を意味するのか。
ふと思ったのですが、そもそも費用・手間・時間にムダが多いことを「不経済」、ムダが少ないことを「経済的」って言うのって不思議ですよね。「経済的に効率が高い」って言い方なら分かりますが、「経済」という言葉そのものにプラスの意味が含まれているのってなんか変じゃないですか?
日本語の「経済」は英語の"economy"の訳語であるが、この語は古典ギリシャ語の οικονομία(家政術)に由来する[3]。οικος は家を意味し、νομος は規則・管理を意味する[3]。従って、economyの本来の意味は家庭のやりくりにおける財の扱い方であるが、近代になってこれを国家統治の単位にまで拡張し、以前の意味と区別して政治経済学(political economy)という名称が登場する(この名称は後にアルフレッド・マーシャルによってeconomicsと改められた。)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
へぇー!
そっか、現象や学問としての「経済」の方が後にできた意味で、「費用・手間・時間にムダが少ないこと」って方がもともとの意味なんだ。知らなかった。Wikipedia先生、ありがとう!
4-2. 議論の目的
まず、議論の目的は「合意を得ること」です。これは「どちらが正しいかを決める」ということではなく、「お互いの主張を理解し、譲り合えないラインを認識する」を意味します。
この主張は青識さんも同様の見解だったはず。いつだったか、TLに流れてきた青識さんの単独ツイートを見たことあります。探すのが面倒だったので、ソースは各自でご検索を。
ここで、Twitterあるあるを1つ。
A「『たけのこの里』の販売を規制すべき」
B「なぜですか?」
A「『たけのこの里』のクッキー部分は非常に歯に詰まりやすく、子どもの虫歯を促進させるからです」
B「あなたは子どもが歯磨きを一切の歯磨きをしないと思っているのですね。『きのこの山』愛好者の想像力の無さにはいい加減、辟易としています」
A「そんなことは誰も言っていません」
オープン・クエスチョンと藁人形論法の悪意ある合体技。『きのこの山』愛好者が述べている内容は非常に論理的かつ分かりやすいのに対して、たけのこ厨は意図的に誤読して『きのこの山』愛好者を誹謗中傷しています。
非常に滑稽なことに、たけのこ厨が批判する「想像力の無さ」が見事なブーメランとなって脳天に突き刺さっているのです。全く、これだからたけのこ厨は。
さて、議論の目的は「合意を得ること」です。前述の会話では一切の合意が取れていません。Twitterでよく見る不毛なレスバトルです。私はこういう生産性が無い時間をドブに捨てるようなレスバが大好物なのですが、議論とは言い難いでしょう。
これにより、議論における不経済を「合意の取れない会話」と定義します。では、どうすれば合意が取れるのか。
合意を得るために重要なのは、「小さな合意」を得ることです。小さな合意を得るためには、より小さな合意を得ることが必要となります。小さな合意を積み重ねることによって、「大きな合意」を得ることができるのです。
ところで、私は昔からSSや二次創作小説が好きでしょっちゅうインターネットを徘徊しており、その影響で学生の頃に大幅に学力を落とし、期末試験で見事に学年ワースト3を記録したという確かな実績の持ち主です。
そんな私が好きな『幼女戦記』の二次創作小説『幼女VS共産主義』にて、幼女であるターニャおじさんは次のように述べています。
ほう。腐っても、世界中の知識人を魅了した『資本論』の作者だ。流石に理論構成は緻密だ。抽象的な経済モデルを提示することで、この世に存在するありとあらゆる資本主義よりも純粋な資本主義を構築。しかる後に、その問題点を指摘する、というわけか。
しかも、仮定に何か問題がないか一々聞いてくるつもりなのだろう。
真に不本意ではあるが、この会話は私が常に求めてやまない理性と知性に満ちた文明人に相応しいものだ。相手がカール・マルクスでなければ、なんと素晴らしきことだろうか。
(作者 理性の狡知『幼女VS共産主義』より引用)
この二次創作小説、『幼女戦記』の主人公ターニャちゃんが、『共産党宣言』『資本論』の作者でみんな大好きカール・マルクス先生と「資本主義の崩壊」についてキャッキャウフフと議論し合うという、とてもハートフルな内容なのでおすすめです。
小説内でカール・マルクスはターニャ・デグレチャフに対し「小さな合意」を細かく取っていくことで、最終的に資本主義の構造的欠陥について「大きな合意」を得ることに成功しています。
イメージとしては、だいたいそんな感じ。
「お前、二次創作小説がソースかよ!!!」という声がそろそろ聞こえてきそうなので、次の章からは「私が実際にTwitterで行った対話の成功」を踏まえて説明していきます。
4-3. 「小さな合意」の実例
ここから実例として提示するのは、フェミニスト石川優実さんの支持者の1人「くぼゆうのすけ」さん(以下、くぼさんと表記)と私の対話です。
なお、事前に申し上げておきますが、Twitterでよく見かける「対話に成功と銘打っておきながら、実際は支離滅裂な発言を晒してオモチャにしたいだけ」という趣旨ではありません。そういったノリを楽しみたい方の期待には沿いかねます。
彼を揶揄する意図は一切ございません。本稿に関することで、彼に対する誹謗中傷行為はくれぐれもお控えいただくようお願いいたします。
では、見ていきましょう。
まずは発端。石川優実さんがTwitterの鍵アカウント内でエミネムさんに疑問を抱く旨のツイートを行い、そのスクリーンショットが流出するという騒動が起きました。
石川優実さんの「疑問」は「批判」と捉えられてしまい、石川優実さんに苦言を呈するツイートが散見される事態となりました。
苦言を呈するツイートの1つに対し、くぼさんは引用リツイートを行いました。私はこのツイートに対してリプライを送りました。
「ソースはおれ」という曖昧な表現は意図的に行いました。曖昧な表現をすることにより、くぼさんとのやり取りをあえて増やすことが目的だったのです。
ごめんなさい、嘘です。リプライをしたときにそんなこと考えていませんでした。しかも、さっき「クローズド・クエスチョンの方が回答側の情報量が多い」とか堂々と言っておきながら、オープン・クエスチョンしちゃっているし、マジなんなのこのカバ……。
「ソースはおれの意味がわかんないですが」とくぼさんは言及していますが、仰る通りです。くぼさんはこのツイートにて、「なぜそんな反論をしたのか」という問いに真正面から「回答」をしてくれました。
しかし、私は全ての疑問が解消されたわけではなかったので、改めてリプライを送りました。
ここで私は、青識さんが述べるところの「相手の論理をこちら側で想像して組み立て」を行っています。そして、藁人形論法に陥ることを避けるため「想像上の相手の主張に反論する」前にクローズド・クエスチョンにて「確認」を取っています。
ちなみに、先んじて「謝罪」を行っていることにも理由がありますが、これは後述の5章で論じます。
ここで「小さな合意」が1つ取れています。私は「確認」をし、彼は「それでもよいです」と「部分肯定」をしました。このあたりから、くぼさんの態度がなんとなく軟化してきたのが感じられるでしょうか。
「小さな合意」が取れたので、私は「反論」のフェーズに入りました。先程の「確認」に対する彼の回答が「部分肯定」だったため、反論は「部分否定」にて行いました。
私の反論が「部分否定」だったため、肯定部分の主張については「小さな合意」が取れています。合意を積み重ねることにより、狭く深い議論を交わすことが可能となります。
このツイートについて、くぼさんは否定部分について「その辺は興味深いとこです」と婉曲表現で「質問」を提示しました。いくつか例を挙げてくださったのは、彼が私との議論に向き合ってくれている証拠でしょう。
私はくぼさんが挙げてくださった例を参考に、なるべく同じ単語を用いて「回答」を行いました。追加でTwitterというプラットフォームに対する「意見」を述べています。
事前に「小さな合意」を取っていたおかげか、「ただ口汚く自分の主張をぶつけ合い、最後には人格否定になる」というTwitterあるある事態を避けられています。
少し分かりづらいですが、ここでもまた1つ「小さな合意」が取れています。
「ねじ曲げる」の定義を述べた私の「回答」に対して、「はい」と「肯定」してくださっています。くぼさんもTwitterについての「意見」を述べつつ「今後どうなるか」と新たに「質問」をしています。
私は「Twitterが今後どうなるか」について私は「回答」を行っています。ここまでで「小さな合意」が3つ取れているのを踏まえて、文字数ギリギリ情報量マシマシチョモランマな意見を述べています。
ちなみに、このツイートの内容は間違っています。後悔しているのはCEOのジャック・ドーシーさんではなく、RT機能の開発者であるクリス・ウェザレルさんです。このnoteを書いているときに、改めて調べて気づきました。マジいい加減にしろよクソカバよぉ……。
くぼさんは「実験して遊んでるのかと思ってました」と自らの誤解を吐露してくださり(でも間違っていたのは私なのよ、ごめんよ〜!!!)、さらに「たしかに、そうですね」と「小さな合意」が取れています。
合意を積み重ねることで、お互いに「信頼関係」がおぼろげながら生まれているのが分かるでしょうか。
私自身もここまでの「小さな合意」の積み重ねによる「信頼関係」を感じ取り、かなりくだけた口調になっています。っていうか、会話が楽しくなっちゃっています。「笑」とか付けちゃっているし、敬語も抜けている。
遡って確認していただきたいのですが、議論の最初の方のツイートでは、くぼさんは「!」を一切使っていません。「!」の多さがそのまま「信頼関係」を表している……と言ってしまうのは暴論ですが、全くの無関係とは言い切れないでしょう。
ここまでで議論は一通り終わっているのですが、私は築いた「信頼関係」が名残惜しくなり、もう少し会話を続けたくてただの「愚痴」を吐いてしまいました。
くぼさんは、私の愚痴を否定せずに受け止めてくださりました。心から嬉しく思います。
また、くぼさんがここまで議論に付き合ってくださったことを私は非常に喜ばしく思い、深く感謝しております。
4-4. 「ムダなやり取り」と信頼関係
青識亜論さんは『青識ア論』にて、「不誠実な」「嫌がらせとしての」シーライオニングについてこう述べています。
根拠や論理を問うための作業なのだから、それが明らかとなってもまだ問いや揚げ足取りを続けるのは、時間の無駄だ。速やかに自分がそれに同意をできない理由を提示するべきだろう。私はこれをチェスになぞらえ、『キングを置く』作業と呼んでいる。お互いが守りたい主張を十分確認できたならば、そこからはしっかりと相互に根拠を確認しあいながら、論を交わすフェーズになる。
ここに全く異論はありません。なるほど、その通りと思います。ちなみに私は、チェスより将棋の方が好きです。
藤井聡太棋聖がライトノベル『りゅうおうのおしごと!』を遥かに凌ぐ記録を打ち立て、フィクションを超える現実として周囲を驚かせ、さらには神との対局をも望むその生き様に、「天才」という二文字を連想しました。
将棋は「取った駒を自分の駒として使える」という点でチェスと異なりますが、これに対して西洋から「降伏した兵士を無理やり従軍させ、自軍と戦わせる卑劣な行為」と見なされて批判があるとかないとか。
いやでも、「捕虜を生かしている」という観点で見れば「その場で命を奪っている」チェスの方が非情な気もします。うーん、価値観の相違。ちなみに、ソースは私のおばあちゃん。
さて、上記の引用部分で青識さんは「自分がそれに同意をできない理由を提示すること」をチェスになぞらえて『キングを置く』作業と呼んでいます。
通常の議論であれば、両者がキングを置いた状態でゲームがスタートするでしょう。ポーン・ルーク・ビショップ・ナイト・クイーンを駆使して、相手のキングを取るべく手を指していく。
また、チェスはボードゲームの中でも「引き分け」で終了することが多いゲームとも知られています。しかし、勝敗が決しなくともそこに至るまでにお互いが指した手はプロセスとして残る。そう考えると「議論」を「チェス」になぞらえるのは言い得て妙で面白い。
しかし、Twitterでの議論は通常の議論とまるで異なります。言うなれば「相手の駒の種類と配置が全く分からない」というルールの『変則チェス』とでも言いましょうか。どれがキングなのか、それを予想しながら手を指していくのです。
ゲームが進んでいけば駒の動きで「これがキングかな?」と予想できますが、そこには通常のチェスとは全く違った戦略が必要となり「楽しみ方」も変わってきます。
さて、青識さんは「否定する労を取らせること」を「かえって不経済」として評しておりましたが、Twitterでの議論においてはその限りではありません。
通常の議論ではムダとされるやり取りでも、それらは「どれがキングか」を探るための重要な作業なのです。それらの「ムダなやり取り」が「小さな合意」を積み重ね「信頼関係」を形成していくのです。
そうしてやっと、お互いの『キング』すなわち「自分がそれに同意をできない理由」が判明するのです。
5. 「質問」の否定的ニュアンス
重要な要素をもう1つ。青識さんが『青識ア論』で言及していない、議論において重要な要素。それは「質問には否定的なニュアンスが含まれる」ということです。この現象は、質問者の意図には無関係に起こります。
本稿の4章で取り上げた会話、その発端を例に考えてみましょう。石川優実さんがエミネムについて言及した件です。
鍵アカウントのスクリーンショット流出なので直接画像を貼ることは避けますが、おそらく石川優実さんは「純粋な疑問をフォロワーに質問する」という意図でエミネムについてのツイートをしたのでしょう。
しかし、そのツイートに対して「否定的なニュアンス」を感じ取る人が大勢おりました。「質問」と受け取らず、質問の体裁を取った「批判」と受け取ってしまったのです。
ちなみに、「本当に石川優実さんにほんの少しの悪意もなかったか」という部分は重要ではありません。真実は石川優実さんしか知りません。「自分の心を完全に理解している人」も少ないでしょうから、石川優実さん自身にすら悪意の有無を判断できない可能性すらあります。
重要なのは、質問者の意図に関係なく「質問」は「批判」あるいは「攻撃」と受け取られる可能性があるということです。
前述のくぼさんと私の会話。その最初のリプライです。このツイートでは「なぜそんな反論を」という「疑問」を呈していますが、これは「あなたの反論は的外れだ」という「批判」にも受け取れます。ここで重要なのは「私の意図がどうあれ、そう見えなくもない」ということです。
この質問は、くぼさんが真摯に「なぜか?」という「疑問」のまま受け取ってくれたおかげで、後の合意形成に繋がりました。
ここで私は先んじて「謝罪」をした上で「質問」をしています。ただし、「合っていなかったら」という条件付きで。これは「質問」であり「批判」の意図は一切ない……という意思を明確に示すために行いました。
その甲斐あってか、お互いに少しずつ態度を軟化させ、議論を交わして「小さな合意」を積み重ねていくことができました。
そして驚くべきことに、くぼさんは前述の一連の議論において一切「直接的な質問を行っていない」のです。一貫して「婉曲表現による質問」を行っています。この方法ならば「批判」のニュアンスが含まることはありません。
意識的なのか無意識的なのかは存じませんが、「質問」を「批判」と曲解される文章を避けているのでしょう。
もちろん、私の質問の仕方や、くぼさんの質問の仕方が唯一の正解ではありません。十分な「小さな合意」の積み重ねにより「信頼関係」が構築されていれば、回りくどい方法を取らなくても「質問」をそのまま「質問」として受け取ってもらえるでしょう。
しかし、まずは「質問には否定的なニュアンスが含まれる」と受け取られる可能性がある……ということ自体を心の片隅に留めておく必要はあると思います。
ところで、これって日本語特有の現象なのでしょうか。それとも他言語でもよく起こることなのでしょうか。誰か教えて、エロい人!!!
6. 論旨の整理
さて、現時点で1万5,000字を超えています。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後に、再び『正しい「シーライオニング」のススメ』での青識さんの主張を引用しながら、論旨を整理していきましょう。
この種の議論や批判において、第一手目に自らの主張ではなく、「問い」を置いたほうがよい理由は、私が考える限り二つある。
二つの理由のうち、一つが間違っています。
さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。
「相手の論理をこちら側で想像して組み立て」と「想像上の相手の主張に反論」の間に、「確認」の工程が抜けて論じられています。
「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からで合っているか?」と、一旦センテンスを切り「確認」を行うべきです。
これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。
「相手の内心を想像して」と「反論」の間に「確認」を行えば、過失による藁人形論法には陥りません。
なお、「確認」は必然的にクローズド・クエスチョンとなるため「想像した相手の内心」という事前情報を相手に伝えることができ、オープン・クエスチョンと比べて精度の高い回答を期待できます。
これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。
藁人形論法に陥らなければ、不誠実とはなりません。
議論の目的を「合意を得ること」、議論における不経済を「合意の取れない会話」と定義すると、Twitterという特殊な議論の場において「否定する労を取らせること」は必ずしも「不経済」とは言えません。
むしろ「小さな合意」を得る機会が増え、合意の積み重ねにより「信頼関係」を築けます。
ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。
Twitterでの議論は通常の議論と違い、「自分がそれに同意をできない理由」をお互いに提示している状態から始まるわけではありません。それらを探り合うことから始まります。
また、「質問」には本人の意図に関わらず「否定的なニュアンス」が含まれます。これを払拭して議論するには「信頼関係」を「小さな合意」の積み重ねによって築く必要があり、そのためには通常の議論では「不経済」だと見なされる「ムダなやり取り」が重要です。
以上のことから、議論や批判において第一手目に置くべきは「問い」ではあるが、その「問い」は「想像して組み立てた相手の論理」もしくは「想像した相手の内心」をワンセンテンスで「確認」するものであるべきだ、というのが私の主張です。
7. 終わりに
くぅ~疲れましたw これにて完結です!
実は、ネタレスしたら代行の話を持ちかけられたのが始まりでした
本当は話のネタなかったのですが←
ご厚意を無駄にするわけには行かないので流行りのネタで挑んでみた所存ですw
以下、カバ達のみんなへのメッセジをどぞ
カバ「みんな、見てくれてありがと。ちょっと腹黒なところも見えちゃったけど・・・気にしないでね!」
あざらし「いやーありがと! 私のかわいさは二十分に伝わったかな?」
オットセイ「見てくれたのは嬉しいけどちょっと恥ずかしいわね・・・」
白熊「見てくれありがとな! 正直、作中で言った私の気持ちは本当だよ!」
セイウチ「・・・ありがと」ファサ
では、
カバ、あざらし、オットセイ、白熊、セイウチ、シーライオン「皆さんありがとうございました!」
終
カバ、あざらし、オットセイ、白熊、セイウチ「って、なんでシーライオンくんが!? 改めまして、ありがとうございました!」
本当の本当に終わり