猫派の対立概念(後編)
猫派VS犬派なんて煽られるけど、猫派の対立概念は"鳥派"ではないか――という話の続きです。もちろん「対立なんてやめて!」「私のために争わないで!」(?)というのが、大大大前提ですけどね。ね。
もちろんポジティブならいいんです。「猫の方が絶対かわいい!」「犬の方にはかわいいだけでなく、かっこいいもある!」「鳥のキュートさも忘れてもらっては困る!」というのなら、それは派閥争いであったとしても"対立"とは違います。一方、「猫に比べて犬は~~だから」とか「猫には~~という問題がある」なんてかたちでネガティブに競い合うのはなんなんだと。
もちろん犬派も猫派も鳥派もその他の諸派も、ほとんどの人がポジティブです。動物の種類は何であれ、自分たちとは違うものを思いやる気持ちがあるのは共通ですからね。ただ、前編で触れたように、鳥派は猫に恨みを抱いている場合があることは意識しておいた方がいいかもしれません。
ちなみに昭和の時代にヤンチャしていたうちの猫1号は、逆に犬に襲われて大怪我をしたことがあります。
もしその怪我のせいで猫1号が死んでいたら、ぼくだって犬嫌いになっていたかもしれません。そうなってしまう恐れは、動物たちと関わる誰にでもあるものです。
一方で、動物たちとの関りがなく無派閥を自認する人の方が、まっとうな知識もないのに無責任にネガティブなことを言うものです。「マンション・団地で猫を飼おう計画」で、うちのダメダメ団地の理事会とやりとりをしながらそれを痛感しています。
ただ、ペット禁止の集合住宅の住民が(隠れて犬猫などを飼っている人を除いて)皆"ただの無派閥"かというと、そうでもありません。
近年のペット可住宅を除くと、マンション・団地など多くの集合住宅には、いつ、だれが考えたかわからないまま日本中でコピペされ続けている「小鳥と魚以外のペットの飼育を禁止する」という規約があります。
なぜ小鳥と魚は例外なのか? は謎ですが、ともかく結果的に「小鳥と魚はOK」である以上、そのルールにあわせて人々の価値観は作られていきます。
よりにもよって猫が捕食する対象である鳥と魚は飼育可能となれば、猫が嫌われるのは必然です。もしも、すでにベランダなどに鳥籠や魚を入れた水槽を置いている家庭があった場合、よそから脱走した猫がベランダを通じてやってくることは脅威になりますからね。でもそれは、人の暮らしの秩序を乱すのとは違います。
集合住宅が反猫感情を育む
一般的に、猫や犬の飼育を認めるようルールを改正する声があがったときに出る反対意見には、主に①糞尿の臭い、②動物アレルギー、③騒音の3つがあります。ここでも猫は不利な扱いを受けます。
①糞尿の臭いについては、室内飼育であれば、ペットのトイレをベランダに出したり飼育崩壊を起こさなければ、どの動物でもほぼ迷惑をかけることはありません。
ただし糞尿の臭いの問題は、②動物アレルギーにも関連します。しかしこれを犬猫禁止の理由とするのは、はっきり言ってイチャモンです。「ペット嫌い」の属性の人が、よく知りもせずに動物アレルギーの人たちをダシに使っているのが実情です。
なぜなら、あまり知られていないようですが鳥にも羽が飛散することによって生じるアレルギーがあるからです。アレルギーの人たちを本当に心配するなら、鳥籠をベランダに出すことは禁じられるべきですが、そうなってはいません。
また、知る限りすべてのペット禁止規約が盲導犬の飼養を例外的に認めていますが、盲導犬なら動物アレルギーを引き起こさないというわけではありません。もちろん飼養に用いる用具を表に出さないなど、隣家への配慮をすれば問題なく盲導犬を飼育できますが、それなら(匂いやアレルギーの面では)盲導犬以外の犬や、猫などその他の動物にも問題はないことになります。
③騒音については、鳥も屋外、隣家のベランダなどにいるとそれなりにうるさい場合があることを忘れてはいけません。ひと所にとどまって鳴き続けるので、野鳥がたまに鳴くのとは違って連続・断続性があるので、好まないBGMをかけられているようになり、気が散る程度の迷惑にはなります。
もちろん鳥も猫も声量は人間以下なので室内で飼育し、虐待などによる悲鳴が生じる場合を除けば、その鳴き声が気になることも、騒音被害を認定されることもまずありえません。ペット飼育のトラブルを巡る訴訟の判例を見ても、騒音が問題になるのは犬ばかり(しつけの悪さなど飼い主の問題による)です。建物ごとの壁の厚みを考慮にいれて防音すれば、騒音問題の解決は現実的です。
しかし、それでも「(室内飼育でも)猫はダメ」で、「鳥は(室外でも)OK」という偏向した価値観がまかり通ってしまっています。
猫は嫌われ者?
騒音問題では、野外での猫同士の喧嘩が問題視されることはありますが、この問題は放し飼いでなければ生じません。しかも、常に飼い猫が喧嘩に関わっているわけでもなく、野良猫同士も喧嘩をします。
でも野良猫がやったかもしれないことは無視され、「すべて飼い猫のせい」にされがちです。とにかく猫が嫌いだったり被害を受けたと感じたら、誰か(人間に)文句を言いたい人が近隣の猫の飼い主に「どうにかしろ」と言ってくる場合も実際にあります。
ぼくも以前、猫同士の喧嘩をやめさせに行ったところ、近所の老人に「静かにさせろ!」と言われたことがありました。ぼくは善良すぎる人間なのでそのときはうっかり「すみません」なんて答えてしまいましたが、できるかボケ。
いい加減な返事をするのは誠実ではないと反省して「静かになるのは、お前だ」と呪っていたところ、ほどなくしてその老人のお宅は解体されていました。あらあら、どうしちゃったんでしょうね?
また、動物の糞尿被害についても、東京ですらハクビシンやイタチ、アライグマなども出没し、犯人が誰かはっきりとはわかるものではありません。
しかも。動物たちが民家で用を足すのは、住宅地の多くがアスファルトで舗装された道路と住宅ばかり、住宅の敷地内も泥棒よけとして隅まで砂利をしきつめたり、雨でぬかるまないよう土地を踏み固めているせいで、動物たちが用を足せる場所が非常に少ないからです。だから住宅の庭にある花壇など土が柔らかい場所を見つけたら、動物たちはそこで用を足すしかない。動物たちを誘導しているのは「人類によるデザイン」なのです。
多くの人々は自然の一部を借りて生きているに過ぎないということを忘れ、なんでも思い通りにコントロールできるという驕りが、はじめに動物たちを困らせ、次いで人類を困らせています。
猫と猫派、そしてあらゆる動物たちとその愛好家のみなさんを無駄に苦しめているのは、「人類によるデザイン」の問題を見過ごす人たちです。
そして彼らにとって、飼育して良い動物とは「人間の思い通りになるか、否か」が基準です。だから籠や水槽で飼う動物だけを「許す」、という考え方になります。不完全なコントロールによって動物たちが苦しむことや、そしてそれが結局周囲の人間にとっても迷惑になることは、彼らにとってはどうでもいいことです。
猫派も、犬派も、鳥派も、共通する対立概念があるとすれば、それは無派閥を気取った人類至上主義者だと言えるでしょう。そして、こう思わずにはいられません、
「静かになるのは、奴らだ」と。
(終)