『一九八四年』
現実の報道やSNSに触れる日々、「それは言論統制だ! まるで1984だ!」と誰かが言えば、「そうだ、そのとおりだー!」と別の誰かが答えるやりとりはいまや普通のものとなりましたが……本当にそうでしょうか?
1949年発表、ジョージ・オーウェル著『1984』と言えば、激しい言論統制が行われる未来を背景とする"1984年"の世界を描いたことで広く知られている作品です。みなさんご存じのとおり、に。
『1984』は、誰もがその物語の背景を「知っている」つもりになっているせいで、意外と読まれていない作品だとも言われます。本書を実際に手にしてみれば「真理省」、「ニュースピーク」、「ビッグブラザー」、「二重思考(ダブルシンク)」といった、どこかで見聞きしたことのある言葉が続けて登場します。後続作品に踏襲され尽くし、手垢にまみれた作品だと思うかもしれません。
しかし、"よく語られる"のは『1984』の導入編とでも呼ぶべき"第1部"までのこと。
続く第2部は体制に対する(ささやかな)抵抗の物語であり、第3部は……(言葉にできない)ですが、この部分についてはあまり語られません。
なぜでしょうか?
第2部からは「あくまでフィクション」の度合いを高めていくこともあり、ネタバレを避ける意識が働いていることもあるでしょう。とはいえ、語られないからといって楽しめないというわけではありません。
いやまあ、楽しい話ではないのですけれど。
ニュースピークの体現
『1984』には「恐ろしい未来」を描き出す要素のひとつとして、扱う言葉の数を減らした「ニュースピーク(new speak)」と呼ばれる語彙の少ない言語と、ニュースピークによって人々の思考が単純化することの脅威が描かれます。
「ニュースピーク」の身近な例を挙げるなら、「好きではない」を「嫌い」の意味で使う感じでしょうか。それだけならもはやよくある普通のことですが、さらに「嫌い」という言葉が辞書から消され、誰も使わなくなります。
思考が単純化し、曖昧な表現ができなくなることで愚かになるという恐怖。二元論が横行することで対話がなりたたなくなる様を、ぼくらはすでにSNSなどで見てよく知っています。
『1984』は単に未来のディストピアを舞台とした「SF」として分類されてしまうことの多い作品ですが、「未来を舞台にした物語だからSFだね」というのはいささか乱暴な考えです。本書で語られることはすでに現在であり、過去にすらなりつつあるのですから、今読むならそのあたりのことを考え直すべきかもしれません。
物語の筋を示すジャンルで分類するなら、『1984』は厳しい規律のある監視社会で"違反"を起こした者が怯えて暮らす「サスペンス」や「スリラー」の一種と言えるでしょう。恐怖・脅威を伝える物語として、当時(世界では西側・資本主義と東側・共産主義が対立し、いわゆる冷戦期に突入する)の世相を反映したうえで「考えさせる物語」が展開します。
とはいえ、ジャンルで大雑把に分類して理解しようとすること自体が、ニュースピークの入り口に立つ行為とも言えるでしょうから注意も必要です。
それでも一旦サスペンスやスリラーとして捉えておけば、『1984』も「重要な事実、根拠は不明のままの方が怖い」という描き方がなされていることに気付けます。『1984』の物語では、真理省が書き換えを行なう動機、独裁者とされるビッグ・ブラザーの思考どころか実存さえも不明なまま物語が進んでいきます。ニュースピークについても、その問題点についてはしっかりと語られる一方で、はじまりの動機は不明です。
こうして読者も、主人公ウィンストンが与えられている知識と同様の、断片的な事実の枠のなかに閉じ込められるのです。
動機や事実は不明のままである方が、様々な"想像の余地"が生じるため恐怖心に支配されやすくなります。かたや事実を知ってしまえば、その理由や動機が「くだらない」ということはよくあることです。
過去の現実を振り返ってみれば、各地の震災や原発事故、新型コロナなどにおいて、政府が秩序を重んじるあまり「パニックになることを恐れて」あるいは「自分たちの失態を認めないために」事態を矮小化して伝えたと考えられることが度々ありました。ぼくらは悪しき者に怯え、憎む一方で、愚か者を見下し見過ごします。そして、脅威や不正の原因が"愚劣"であったときに、その事実を認めないことすらあります。愚劣は、恐怖の原因としては不十分だからです。
"わからない"という恐ろしさに抗うために、「なにかを知ることで安心を得たい」という心理が働くことも忘れてはいけません。そして「動機や真実を知りたい」という気持ちは、物語を読み進めさせるための"装置"にもなります。
どこまでジョージ・オーウェルが意図したかは定かではありませんが、『1984』も結果的に動機や真実を関心事として隠すことで、読者に読み進めさせる構造になっています。これは、物語ゆえの宿命と言えるでしょう。
最終的にどこまで真実が語られるかはさておき――
『1984』は、起こりうる未来の脅威を伝える作品ではあるものの、"言葉を尽くして"すべてを語る作品ではありません。
そして本書を読み終えた読者が覚える感情は、ニュースピークがすっかり浸透したかのように単純なものになることでしょう。この物語を読み終えたとき、言葉を尽くそうにも尽くせない感覚を覚えたとしたら、それがなによりの恐怖かもしれません。
(おしまい)