藤田一照×伊東昌美「生きる練習、死ぬ練習」 第三回 私という一人称の「死」
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イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談。第三回は「死」をめぐる人称について。一人称としての死、「“私”が死ぬってどういうこと?」という問題です。
対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」
第三回 私という一人称の「死」
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●阿久津若菜
一照さん:
「貧乏なり死なりに対する、僕らの感情的なリアクションとか、思考のリアクションも、そういう前提が元になって生じているんです。そこの前提のところをよくチェックしていかないと、たぶんなにがなんだかわからず混乱したまま死んでしまう。何しろ混乱したまま生きているんだから。生きているようにしか死ねません」
藤田 「生」の側からは絶対に「死」というものを見ることはできません。なかでも「私」の死はね。人の死は見えるかもしれないけど、それは死体(body)ですから。「死」というものには、一人称の「死」、二人称の「死」、三人称の「死」があります。
伊東 一人称の「死」とはどんな死なのでしょう?
藤田 他の人には絶対に代わってもらえない「私」の死です。いま問題にしたいのはこの「死」でしょう。だけどこれはここまで言ってきたように絶対にわからない。わかるというのは私の存在を前提にしているけど、死はその私そのものがそもそもなくなることだから。
二人称というのは、「私」にとってかけがえのないものの死、子どもや飼い猫の死のようなものですよ。だからグサッとくるわけです。ペットロス、とか。
三人称の「死」はちょっとはショックを受けるけど、まあ自分とは切り離せる死。ニュースで聞くやつですよ。
伊東 一人称から三人称まであるんですね。
藤田 その人称の違いによって、「死」の意味が全く変わってきます。エンディングノートは一般的に、一人称の「死」について扱うでしょう。これは独特ですよ。
伊東 私がつくっているエンディングノート(ジブツタ)との関わりとしては、二人称の「死」も入ってはきますけどね。なぜエンディングノートを書くかというと、二人称のかけがえのない人たちに少しでも迷惑がかからないようにとか、思い出として残せるものを残すとか、財産もそうですけど。自分が生きるか死ぬかだけの問題だったら、あえて書かなくてもいい項目も多いので、一人称と二人称の関わりにおいて書く方がいい。
藤田 でも、想定しているのは一人称の「死」。それが周りの人に及ぼす影響を考えているわけですよね。
伊東 そうですね、「死」自体は一人称の「死」ですね。前回(第2回)の話にも出ましたが、死を考える前に生を考えるのは、本当にそうだと思うんです。
私がこの「ジブツタノート」をつくった時に、すでにエンディングノートという括りのジャンルがあったので、総称としてこの言葉を使っているんですが。
ただ、私がこれをつくろうと思った意図の中には、死ぬための準備だけではなくて、そこまでの「生きること」をもっと充実させるとか、死や老いを怖がることを少しでも軽減しながら生きていくために、何か縁(よすが)になるものができないか? とつくったので。
私自身の考え方としては、むしろエンディングノートというより、ライフノート的な意味合いでつくりたいし、書いてほしいとも思っています。
なので、一照さんがおっしゃるような、世界をそう見てしまう前提となる“赤いセロファン”が外れることができるといいな、と思っているんです。
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