システマ随想 第十一回 ヴラディミア・ヴァシリエフ 第1回
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ロシアン武術「システマ」の公認インストラクターである、北川貴英氏が書き下ろしで語る、私的なシステマについての備忘録。第11回目の今回からは、北川貴英さんのトロント訪問記を連続でお送りします。既にシステマを学び始めて10年という北川さんにとって、今回のトロント訪問は、ご自身にとってもマイルストーンとなる訪問だったようです。
システマ随想
第十一回 ヴラディミア・ヴァシリエフ 第1回
文●北川貴英
思い起こせば10年前……
2016年10月に3週間ほどトロントに行ってきました。訪ねたのはシステママスター、ヴラディミア・ヴァシリエフが校長を務めるトロント本部。システマ創始者ミカエル・リャブコに師事し、ロシア国外にシステマを広めた立役者です。
ミカエルとはほぼ毎日電話で連絡を取り合う間柄であることもあり、いま世界でもっとも深くシステマを理解している人物の一人。筆者はミカエルだけでなく、このヴラディミアからも継続的にトレーニングを受けるように心がけています。ミカエルが現在進行形で教えていることをヴラディミアがどう解釈しているのか。それがシステマを学ぶうえで極めて大きなヒントとなるからです。
筆者がトロントに行くときは基本的になんらかのセミナーを絡めた短期集中型のスケジュールを組みます。一週間から10日くらい朝から晩までトレーニングをして頭も身体もいっぱいいっぱいになって帰るのがいつものパターン。一方のレギュラークラスは1日1コマか2コマほどのため一日あたりのトレーニング時間も多くて3時間ほどとなり、どうしても空き時間が多くなってしまいます。そのためなるべく日本を離れたくない筆者としては、細く長く続ける長期間滞在は自然に避けることになります。
それでもあえて今回、レギュラークラスに限定して3週間通うことにしたのには、ちょっとした理由がありました。
それは「自分の変化を確かめたかった」というもの。
10年前、私がシステマを学ぶために初めて海外に足を運んだ先がトロント本部です。その時と今とで自分がどう変わったのか。当時と同じような形で同じ場所に足を運べば、それが感じられるような気がしたのです。滞在期間を3週間にしたのは、初めてのトロント行きでは2週間が限界だったため。システマを始めてほんの数ヶ月という初心者だったので、それ以上体力も気力も保たなかったのです。当時より成長していれば、より長い3週間の滞在も余裕をもって過ごせることでしょう。受け取る学びも以前とは大きく異なるはずです。
10年前はいま以上に英語も分かりませんし、トロントの土地勘もありません。我ながらそんな状態でよく行ったなと感心してしまうくらいですが、とりあえず立てた目標は「怪我なく全クラスこなす」こと。トロント本部を訪ねた日本人が少なかったこともあってかヴラディミアは歓迎してくれましたが、初心者の私にとって当時のトレーニングはなかなかハードでした。
慣れないストライクで胸から肩にかけてアザで紫色になったり、グラウンドワークでは何度も首や腕を折られそうになったりなんてことも。さらに空き時間にはダウンタウン郊外にあるもう一つのシステマジムにも通ったり、プライベートレッスンも入れるだけ入れたりしたため、第1週を終える頃にはかなり疲労困憊になってしまいました。
中でも印象深いのはヴラディミアの放置プレイです。
クラス全員にプッシュアップの姿勢を取らせたまま、オフィスに行ってしまったのです。ヴラディミアが来客と談笑している間も両拳で体重を支えるプッシュアップ状態のまま。いつまで経っても終わる気配がありません。“せっかくトロントまで来たのだから絶対に膝をつくまい”と頑張っていたらヴラディミアが悠然と私の脇までやって来て、こう話し始めました。
「この日本から来た彼を見ろ。もう体力が限界に来ているが気力だけで持たせている。みんなもこういう風に頑張れ」
他にも色々と話していましたが、正直限界だったので何を言っていたか覚えていません。かといってヴラディミアに褒められた矢先に脱落するわけにもいかず、ただただ我慢してなんとか「終わり」の合図がかかるまで耐え抜くのみです。
北川氏とヴラッド先生
もっとも基礎体力がなく、動きもずいぶん硬かったので自業自得のようなものですが、それにしてもキツかったというのが当時の印象です。それでも何とかモチベーションを切らせることなく、最後まで通えたのはなんといってもヴラディミアのおかげ。身長180センチほどのヴラディミアがひとたび動くと、部屋全体を包み込んでしまうほどの大きさにぶわっと拡がって見えるのです。“あれは一体なんなんだろう。その一端でも持ち帰りたい”その思いがあったからこそ、アザだらけの身体を引きずってジムに通うことができたのです。
それから10年。
自分はどう変わったのか。
トロント本部のレッスン
少なくともトロントの街はほんの少し変わりました。
地下鉄の乗車賃はずいぶん高くなりましたが、本部近くにタワーマンションが建ったお陰でずいぶん便利になりました。今回滞在したのはその一室。インド人家庭の一室がAirbnbで格安だったので、そこにホームステイです。
つい数年前まで本部近くには安く滞在できるところがなく、少し離れたところからバスや地下鉄で通っていました。トロントの地下鉄はちょくちょく止まるうえ、代替路線がありません。地下鉄が止まると行き場を失った乗客が地上に溢れ出し、バスやタクシーに乗り換えるため大通りが一気に渋滞します。そんな時は本部に行くのも一苦労。チップを多めに渡してタクシーを飛ばしてもらったこともありました。そんなことに気を煩わせることなく安心してトレーニングに臨みたい私としては、本部の徒歩圏に格安で泊まれるようになったのはとてもありがたいことなのです。
ヴラディミアのクラスは月曜日から木曜日です。参加人数は平均して30人ほど。火曜と木曜は午前中にもクラスがありますが、夜のクラスとそれほど参加人数に差はありません。日本に比べて勤務時間に融通の効く仕事に就いている人が多いのでしょう。中には馴染みの顔もちらほら混じっています。セミナーに比べるとかなりこじんまりとしているため、ヴラディミアの指導を間近で受けられるというおトク感もあることから、もっぱらレギュラークラスにだけ参加する人も多いようです。
クラスの開始時間になると、ヴラディミアがゆったりとした足取りでオフィスから姿を現します。まず指示するのがウォームアップ。全員で床を転がり、押したり、乗っかり合ったりして身体を温めたあと、システマ式レスリングへと移行します。二人組あるいは三人以上で組んで組んず解れつするのですが、特に決まったルールのないグラップリングのような趣です。
別に勝負を決するわけでもありませんし、あくまでも目的はウォームアップなのでエキサイトしないよう注意します。1つだけ暗黙のルールがあるとしたら「動き続けること」。だから例え相手を柔道式に押さえ込むことができても、相手を封じたまま膠着することなく互いに動き続けます。
こうして皆が汗だくになった頃に、ヴラディミアがその日のワークを指示します。私が滞在した頃は日本セミナーの直前だったためか、ストライクの練習法を試行錯誤しているようでした。中でも何度か練習したのは、拳、肘、肩とそれぞれの重さを使ってパンチを打つというもの。肩の場合は肩から拳にかけての腕全体、肘なら肘から拳にかけての前腕部をリラックスさせ、自由落下で落とすようにして打つのです。中でも難しいのが拳です。上腕も前腕も動かさず、手首から先だけの動きでパンチを打たねばならないのです。
ヴラディミアが言うには、このパンチは至近距離でのストライクに不可欠とのこと。しかしどうしても肘や肩が一緒に動いてしまいます。この感覚を掴むためにスティックを使ったエクササイズを教わったのですが、なかなかうまくいきません。周囲を見渡すと古参の生徒もやはり四苦八苦な様子です。それを見て取ったのか、ヴラディミアはクラスのたびに少しずつ練習法をカスタマイズしていきます。最初はなんとなく「肩から、肘から、拳から打つ」という指示だったのが、次第に「どうやってそれをやるか」というより細やかな指示へと変わっていったのです。
その一環で教わったのが、スティックを振るエクササイズと、鉄棒を使ったエクササイズ。前者はスティックを片手で持ち、スティックの自由落下に任せるようにして上から下へと振り抜きます。これを肩から、あるいは肘や手首から振ることで、ストライクの感覚を養うのです。ここで重要なのは姿勢を崩したり、他の部位を余分に動かしたりしないこと。力みがあればスティックの勢いが背骨に伝わり、姿勢を歪めてしまうのです。
もう一つはジムの壁に備え付けられた鉄棒を用いての懸垂です。懸垂と言ってもただ身体を持ち上げるのではなく、「鉄棒を引きつける」ようにするのです。外見上はなんの変哲もない懸垂ですが、そうすることで拳が重くなるだとヴラディミアは語ります。なんか不思議なトレーニング法ですが、そう感じた時はまずやってみるに限ります。
そこで毎日、ジムに行くたびに懸垂をしてみたところ、手首から先だけでのストライクの感覚がなんとなくつかめてきました。クラスで試してみても、相手への衝撃の伝わり方が明らかに変わり、ヴラディミアからも「拳が重くなっている」との評価でした。それなりの効果がでたのかも知れません。こうしてヴラディミアがセミナーに向けてどのようにワークを準備しているのかが垣間見られるのも、レギュラーのクラスならではのメリットと言えるでしょう。
思い思いの課題に取り組むフリーワーク
こうして練習に取り組んだあとは、フリーワークの時間が設けられます。その日に学んだことを、自由に試すのです。10年前にもっとも戸惑ったのがこれです。例えば「自由に描いていいよ」と画用紙を渡されて、描きたいものがパッと思い浮かぶ人はなかなかいないでしょう。むしろテーマを設定された方がアイディアを出しやすいのではないかと思います。
トロント本部でのフリーワークは、一応その日に学んだことを試すというテーマがあるものの、全く関係ないことをやるのも自由。その為、動きは人それぞれで、システマの原理を忠実に守る人もいれば、かつて覚えた何らかの格闘技の技を繰り出して来ることもあります。そうかと思えばひたすら喉元の急所を指で突いてくる人もいました。「リラックスすれば平気なはずだ」と言うのですが、やっぱり苦しくてどうしても咳き込みます。では本人はどうなのかと思いワークの最中に突き返してみたのですが、嫌がっていたのでやっぱり苦しかったのでしょう。
以前なら不可解でしかなかったこういったメンタリティも、すっかり慣れ、今ではずいぶん落ち着いて対応できるようになりました。今ではむしろ海外に来たという実感を呼び起こしてくれるスパイスとなっています。
ウラジミール? ヴラディミア?
ところで「ヴラディミア・ヴァシリエフ」というカタカナ表記について。
ヴラディミアの名前はロシア語では「Владимир Васильев」になります。ロシア語の発音をカタカナに置き換えると「ウラジミール・ワシリエフ(ウラジミールは「ウラジーミル」や「ウラヂーミル」、ワシリエフは「ワァシリエフ」など別の表記がされることもあります)」となります。なので通例では「ウラジミール・ワシリエフ」となりますが、国内のシステマ界隈では「ヴラディミア・ヴァシリエフ」という表記が一般的になっています。この違いは英語圏の発音をカタカナ表記にしたことから生じています。
英語ではロシア語の「В」が「V」に変換されるため、本来「ウ」に近い発音が、「ヴ」に変換されるのです。しかしこれでは「ヴラディミア」が子音の「a」で終わるため、ロシア語では女性名詞になるという問題が出てきます。それでもあえて英語の発音が用いられているのは、もともとシステマが北米を中心に広がったことと関係しています。「Владимир Васильев」ではなく、「Vladimir Vasiliev」として有名になっていたため、海外でも通用しやすい表記として英語の発音に準じることになったのです。
そんな「ヴラディミア」の知名度は、10年前と今ではまるで違います。でも偉ぶる様子など全くなく、干渉しすぎず放任するでもない絶妙なさじ加減で指導をしてくれます。そして私のような遠征組が滞在している時は日程を確認し、最後のクラスでは必ずマンツーマンで指導して今後の課題を与えてくれるのです。
(第11回 了)
–Profile–
著者●北川貴英(Takahide Kitagawa)
08年、モスクワにて創始者ミカエル・リャブコより日本人2人目の公式システマインストラクターとして認可。システマ東京クラスや各地のカルチャーセンターなどを中心に年間400コマ以上を担当している。クラスには幼児から高齢者まで幅広く参加。防衛大学課外授業、公立小学校など公的機関での指導実績も有るほか、テレビや雑誌などを通じて広くシステマを紹介している。
著書
「システマ入門(BABジャパン)」、「最強の呼吸法(マガジンハウス)」
「最強のリラックス(マガジンハウス)」
「逆境に強い心のつくり方ーシステマ超入門ー(PHP文庫)」
「人はなぜ突然怒りだすのか?(イースト新書)」
「システマ・ストライク(日貿出版社)」
「システマ・ボディーワーク(BABジャパン)」
「ストレスに負けない最高の呼吸術(エムオンエンタテイメント)」
「システマ・フットワーク」(日貿出版社)
監修
「Dr.クロワッサン 呼吸を変えるとカラダの不調が治る(マガジンハウス)」
「人生は楽しいかい?(夜間飛行)」
DVD
「システマ入門Vol.1,2(BABジャパン)」
「システマブリージング超入門(BABジャパン)」
web site 「システマ東京公式サイト」
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