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藤田一照×伊東昌美「生きる練習、死ぬ練習」 第二回 「死」って怖くないですか?

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イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談。第二回は、「死を怖いと思う“私”って誰?」という、私が私である境界についてです。


対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」

第二回  「死」って怖くないですか?

語り●藤田一照、伊東昌美

構成●阿久津若菜


一照さん:
「「死」というのは生きている者、僕ら全てにとって最大の難問なわけです。だから「死」が解決できるなり、それとうまく折り合っていく筋道を見つけられたら、他のことはそれよりは扱いやすいといったらおかしいけれど……病気や老い、すべての問題に通じると思いますね」


藤田 前回(第一回)のロウソクの炎の喩えでいえば、みなさん、今の「この炎(生)が全て、消えたら終わり」という考え方を変えないで、この考え方の中で怖かったり、動揺したり、そういう嫌なことが起こらないようにしたいという、たいへん虫のいいことを思っているわけだけど。

伊東 そこを変えた方がいいのですね。

藤田 ええ、その考えの枠組み自体を変えたら、問題は雲散霧消するというか。
 たとえば、赤いセロファンがついたメガネをかけているとします。そのメガネをかけている限り、どこを見ても赤く見えるわけです。
 でもこれを「赤いものを見たくないから、何とかしてください」といったら、
セロファンをつけたままで何とかしようとするやり方
セロファンそのものをはがすやり方
がある。
 でもまず、メガネの上に赤いセロファンがついていることを知らなければ、これを外せるという発想も出てこないでしょう? それだと赤いセロファンのメガネをかけたまま、赤く見えないような方法を一生懸命探すことになりますよね。

 僕らが、生きるスタンスや前提になっていることに由来する問題に取り組む時には、“前提そのもの”に目を向けないと、まずいです。前提を変えずにその範囲内で解決しようとするのは、仏陀の言い方だと

「水を必死でかき混ぜてバターにしようとする」

ようなもの。「労多くして益少ない」です。いや、益少ないというより、益ゼロ。要するに実現不可能な企てをしているわけですよ。結局、無駄なあがきというやつですよね。
 物理学者のアインシュタインも「我々の直面する重要な問題は、その問題をつくりだすのと同じ考えのレベルでは解決することはできない(The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking we were at when we created them. )」と言ってます。

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