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藤田一照×伊東昌美「生きる練習、死ぬ練習」 第六回 苦悩の正体を見きわめる

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 イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談。第六回は苦悩のカラクリについて。苦悩を叩き潰すのでもなく、忘れさせるのでもなく、慰めるのでもない、仏教の説く「苦悩の乗り越え方」を学びます。


対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」

第六回  苦悩の正体を見きわめる

語り●藤田一照、伊東昌美

構成●阿久津若菜


一照さん:「『死』だけを、あまり特別扱いにしない方がいいかもしれないですね。生きてきたようにしか死ねないですよ。いい加減に生きてきておいて死ぬ時だけ100点満点になんてできない、ムリムリ」


伊東 一照さん個人としてと、禅としてと、両方の観点からお聞きしたいのですが。

藤田 僕にはどちらか区別をつけて答えられないとは思いますけど。僕と禅と、分離した二つではないですから。で、何でしょう?

伊東 認知症になって、自分がまだらでボケた時はまだしも、完全に意識がなくなった状態があるとします。
 この状態は生きているのでしょうか、死んでいるのでしょうか?

藤田 もちろん生きていますよ。第二回で話した、それまでキープしてきた「私という昼の意識」とは、さすがに様変わりしてしまっているかもしれないけど。命のところではまだ続いているでしょう。

伊東 寝ている状態に近いということですかね。でもまだ生きている、といえるのでしょうか。

藤田 「生きている」「死んでいる」という定義の問題になりますけど。でも生きていますよね。だって、伊東さんが昼寝している時だって、それは生きているでしょう?

伊東 そうですね。同じく、認知症になられた方も生きているということですよね。

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