北川貴英×山上亮 「親子体育」をかんがえる 第五回 「“からだを育てる”体育」
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システマ東京の北川貴英さん、整体ボディワーカーの山上亮さんの対談5回目は、「親子体育がやろうとしていることは何か」についてです。体育はそもそも、からだの能力を数値化して成績がつけられるものなのか? という疑問から始まり、学校で教わる体育と、“からだ育て”としての体育との違いについて、話が進みます。
北川貴英×山上亮 「親子体育」をかんがえる
第五回 「“からだを育てる”体育」
語り●北川貴英、山上亮
構成●阿久津若菜
あらためて「親子体育」とは?
コ2編集部(以下、コ2) これまでの回では、親子体育が考える「からだをどうやって作るか?」について、3点をあげて話をしてきました。(→これまでの連載はこちら)
傑出した人から普通の人までいろいろなからだに会う→第一回 へんなからだに会わせる
今いるところの雰囲気を感じ、「場」に沿った動きをする→第二回 からだが作るのは「場」&第三回 場作りの作法と型
嫌な予感も含めて「場」が感じられるからだを作る→第四回 からだは感応する
ですが対談を進めながらずっとモヤモヤしていたのが、「“親子”と“体育”という言葉を、結びつけていいのか?」ということでした。今さらですが(笑)。
「親子体育とは、“からだ育て”をすること」
という前提で話を進めてきましたけれども、“体育”という言葉からはどうしても、学校の体育—運動能力(速く走るとか、高く跳ぶとか)の優劣で成績がつく、教科としての体育—を連想してしまい。
親は先生ではないので、子どもの成績をつける必要はありませんし、運動の技術を教えられるわけでもありません。逆に学校の体育で、本来ならば親子関係でやるべきことまで“からだ育て”の一環として求められてしまう場合もあるかもしれません。 そこであらためて、「親子体育でやろうとしていること」について、お話をいただけないでしょうか。
山上 最初に”体育”という言葉の定義から考えないといけないですね。
私自身は講座でよく「整体は体育なんです(※)」と説明するのですが、そこでいう体育というのはいわゆる学校教育の体育ではないんですよね。
整体の大本である整体協会も文科省管轄の体育団体ですけど、学校教育の体育のイメージで考えるとなかなか理解できないかもしれません。
でもそのような意味での体育という言葉の使い方は一般的ではないので、そのイメージで「親子体育」という言葉を考えるとやはり違和感がありますよね。
(※)整体協会のサイトより
「整体協会は昭和三十一年、故野口晴哉によって設立され、文部科学省(旧文部省)から社団法人として認可を受けた体育団体です。
本来、体育が目指す体力発揚とは、実生活の場で溌溂と自らの能力を発揮することに外なりません。我々が体力発揚の基礎と考えている「体を整える」ということを本当に追求するには、広い視野に立って自らの生活を見つめ直すことが必要です。」(引用元:http://www.seitai.org)
北川 そうそう。だって、ここで話しているのは「足が速くなくたっていいじゃない」、という体育ですから。その一方で、手先を使った細かい仕事(針仕事とか工作とか)も体育に入ります。だってからだを使っているのだから……という考え方。
でも学校だと、それは技術科・家庭科に入ってしまうわけでしょ。さらに言えば、数学や歴史、理科なんかもぜんぶ含めてしまうことができます。どれひとつとしてからだ抜きで成立するものはありません。そもそも脳はからだの一部なんですから。そういうのが、ここでいう「体育」ですね。
山上 野口晴哉のいう「体育」も視野に入れて、あらためて「体育とは?」と考えてみると。「体育の成績がいい」といった時、それは「足が速い」ということなのか、「ボールを遠くに投げられる」ということなのか、「ジャンプ力がある」ということなのか、そもそもそういう能力を測ることで、からだの何を比べようとしているのか。そういうことがあまり考えられていないような気がします。
「身体能力」と一言で言っても、さまざまな側面があるわけで。「足が速い」ということもその一つですけど、たとえば「どこでも寝られる」とか「何でも食える」とかいうことだって立派な身体能力でしょう。でもそれは体育の成績にはならない。それはそういうことが数値化に馴染まないからですよね。だから非常に評価しづらい。
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