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そうそう、あの夏はね、甲子園にM工業の野球部が初出場して、あれよあれよと言う間に優勝して、もう、お父さん、あの瞬間テレビにかじりつくようにして感動して泣いていた

「月が出た出た月が出た・・・」
奈美のお父さんは、酔うといつも炭坑節を歌っていた。
毎年5月1日に行われる国際的な労働者の祭典メーデー
の日になると、奈美は亡くなった父を思い出す。

奈美が生まれたのは、九州の炭坑の街だった。
と言っても、奈美が物心つく頃には、すっかり寂れてしまって
今で言うリストラの嵐で、つぎつぎ、なじみの人たちが
街から去って行った。奈美のお父さんも、その例外ではなかった。
奈美が13歳の昭和40年、とうとうお父さんも指名解雇処分を
受け、街を去らなければならなくなった。

「そうそう・・・あの夏はね・・・甲子園に大牟田の三池工業の
野球部が初出場して、あれよあれよ・・と言う間に優勝して・・
もう、お父さん、あの瞬間テレビにかじりつくようにして
感動して泣いていた・・・」

近所の名もない高校が信じられないくらい強かったのは、
寂れて行く炭坑と、その街を去る人たちの無念さや悲しみの
反動だったのかもしれない。

「炭坑は事故が多くて、しょっちゅうケガするし、
無事勤め上げても、炭坑で働く人は肺がススだらけに
なって、平均寿命より10歳早く死ぬんです」

それでも、奈美のお父さんは
「おれは、山で働くしかない」
と言って、お母さんと奈美と弟を連れて、北へ北へと
炭坑を渡り歩いた。奈美のお父さんの最後の職場は
北海道の夕張炭坑だった・・・
「帰りたいのお・・・♪つーきがでーたでた・・・つーきーが
でーたー♪・・・」
と息絶えるまで、お父さんは歌っていた。

奈美は22歳で、小樽にある中学校の国語教師になった。
夫は同僚の体育教師だった。
「彼が九州出身だったのも・・・お父さんのお導きかな・・」
夫といっしょに
「いつか九州へ帰ろうね」
と南へ南へ転勤を繰り返し、
まるで、昔、炭坑を追いかけ続けたお父さんといっしょに
歩んだ足跡を35年かけて辿った奈美は、
炭坑の亡くなった生まれ故郷の中学校の教壇に立つことになった。

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