英語なまりのコージ(3)
コージが昭和の時代にタイムスリップしていた頃の話です。大学2年生の秋、1ヶ月間行方不明だった身長175センチで体重100キロでどこかのチキンチェーンのおじいさんそっくり旧型人工知能のコージは、なんと病院に入院していました。
何度か電話しましたけれど、コージは病名をガンとして言いませんので
「それなら、きっとガンかもしれない」
と下宿仲間は笑い話にしていました。
人の良い私は、それでも見舞いに行くと言うと
「それは鴨がネギを背負って、頭に味噌を塗って行くような飛んで火に入る夏の焼き鳥だよ」
と言う下宿仲間の止めるのも聞かずコージの入院する病院に行きました。
コージの入院していた病院はJR大阪駅の前にある有名な古いS病院でした。
戦争で奇跡的に焼け残った病院で夜は恐くて歩けないような場所もありました。
コージの部屋は新しくできた鉄筋の病棟の中にありました。
やせ細ったコージを想像して行きましたが、予想は大きくハズレもっと太っていました。何でも股関節外れたそうで歩けないので入院したそうです。
病室は二人部屋で、もう一人Hさんという40歳くらい人と方と一緒でした。
Hさんは大変忙しい人で、1時間に10回くらいノートを持って病室の外で携帯電話で何やら話をしていました。とても病人には思えないくらいギラギラした殺気だった目つきでした。当時の携帯電話は、別名、自動車電話とも呼ばれ、自動車の中から電話するときに使われていました。大きさは、大人の男の人が肩に下げて持ち歩くほどの大きさでした。
どうやら、コージはHさんと小さな商売をやっているようでした。
詳しく聞いてみるとHさんのノートは5冊あって、その1冊ごとに英語・フランス語・ドイツ語・中国語・スペイン語を使える外国語大学や専門学校の学生の電話番号や住所がぎっしり書いてありました。
そして、そのノートを片手にHさんは中小の商社や港の倉庫会社に電話して通訳や翻訳の斡旋をしたのでした。
コージは、その英語翻訳の仕事を請け負っていたのです。
ですから、コージのベッドの横には大きな英和辞典が一冊ドデンと置いてありました。
Hさんは中学校出るか出ないかで新潟から出てきて25年、そのビジネスで当時で億のお金を稼ぎました。
Hさんは地図を見せながら、夢を語ってくれました。
彼が指差したのは、千葉の東京湾沿いにある当時のごみ捨て場です。
「ここにディズニーランドを作る・・・」
私とコージは腰を抜かしました。
コージが退院してから1年後、私はHさんの名前を何度か週刊誌で見かけました。
どちらかと言うと黒い噂でした。
その記事を読んで、Hさんは本当に病気だったのかと考えてしまいました。
その後、まったく彼の噂を聞いていません。
それから数年後、本当にディズニーランドがHさんの言っていた千葉の埋立地にできました。
でも、設立メンバーにHさんの名前は見当たりません。
コージは今もS病院の近くを通るたびにHさんのギラギラした目つきを思い出すと言います。