『怪物』が不可欠な世の中
映画『怪物』に悪人は存在せず、ボタンの掛け違いや勘ぐりで歯車が合わなくなっているだけであった、という感想を書いては消し、書いては消し、結局公開日から2か月が経ってしまった。
(以下ネタバレ含みます)
湊の母のやりきれなさは気の毒だったし、保利先生は湊の嘘に人生を壊されたといっても過言ではないので可哀想だった。しかし、母親と教師。自身の立場をわかった上での立ち回りを展開していく彼らは正しく見えるが、正直それって無関心に近い。ふたりを息子、生徒、というカテゴリーに分類し、ある程度の模範解答が存在する対応を選択していくのは、立場的には正しいのかもしれないけれど、あまりに冷淡だ。もっと人間としての湊、依里と真正面から向き合っていればあんな展開にはなっていなかった。
対照的に麦野湊と星川依里には立場がない。いや、正確にはあるのだが、彼らが置かれているのは、自分が何者であるかという内的な部分での葛藤の段階である。つまり、彼ら自身の中にはまだ立場というものが形成されていないのだ。
この作品の構造を大人と子どもの対比と捉える人が多くいるが、立場を持つ者と持たざる者の対比と捉える方が私的にはしっくりくる。
ここからは考察になるのだけれど、湊と依里は世界を諦めたわけではない、と私は考えている。「自分ってなんか変なのかな」という意識と葛藤しながら、自分を恨むべきか、はたまた世界を恨むべきかを悩んでいる。
湊の母による「普通」や保利先生による「男らしさ」の無意識的な押し付け、依里の父による「正常」になる為の暴力的教育に息苦しさを感じながら生まれた苦痛を伴う葛藤であることに間違いはないが、どうせ私たちがなにを叫んだって世界は変わらずに今日も回るんだ、的な失望には至っていないのだ。
そして彼らがその葛藤から解き放たれ、世界を再びみつめたときこそが真の困難ではあるのだが、本作でそれは描かれない。
生きていく上で何者かになることはきっと必要不可欠で、それは同様に誰かを怪物にしたり、社会を怪物にしたりすることで折り合いをつけることでもある。怪物を作るために嘘を吐く人間も、その嘘に便乗し刃を向けることで快楽を得る人間も不可欠だ。そうすることで世界は成り立っているし、そうしないと成り立たないから。
それって心底つまらないし、私にとっては悪でしかない。
私もあなたも、ただの人間でしかない。