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党と衆 忍ぶる玉梓 - 親王の弓削島 内親王の生口島 第1部 長い手紙(3)キヅキと直子 - ”ノルウェイの森”から

村上春樹が神戸高校に入学する12年前,1952年(昭和27年)東大総長の矢内原忠雄は,同校で講演を行っている。

「自由と独立の精神」と題する講演の中で矢内原は,“立脚俗情におちざるは介なり”の意義について述べる。

立脚点,誰が何と脅迫しようとおれはここに立っているのだという毅然たる態度を持たなければ,世の風潮に押し流されて,今日は西,明日は東と,浮草のようにただようだけであります

他人の人格,他人の立場を尊重するところの寛容にして平和の精神と,しっかり自己の立脚点を確立するという独立の精神を必要とするのであります

直接には聴講していない村上にも,1910年(明治43年)第一神戸中学校を卒業した先輩の説く「自由と独立の精神」が,しかと受け継がれているようである。

もっとも,愛校心のもと校風主義者を自認し,おおむね首席で通した矢内原に対し,学校というシステムになじめず,授業はおおむね退屈で,空想に耽っていたという村上。同窓ではあっても,母校との立ち位置は異なるようである。

現実社会の大きな“制度”の内にあって,読書そのものがもう一つの学校であり,自己に固有の“制度”であるという村上。

自己の立脚点を確保し,“個の回復スペース”を手に入れるためには,“「個としての生き方」を理解し,評価する共同体の,あるいは家庭の後押しが必要”と説く。

本を読むことについて文句を言われたことはないという村上は,国語教師の両親のもと“いつも本が溢れていた”という家庭に育つ。

は,京都市左京区の蹴上にある浄土宗西山派“安養寺”に次男として生を享ける。春樹が誕生した1949年(昭和24年)には京都大学大学院文学研究科に籍をおいていたが,生計を立てるため甲陽学院(西宮市)の国語教師の道へと進む。

大阪船場の商家に生まれたも,樟蔭女子専門学校国文科(東大阪市)を卒業後,結婚退職をするまで樟蔭学園で教鞭をとっていたという。

1917年(大正6年)に設立された甲陽中学校に遡る甲陽学院と,同年に設立された樟蔭高等女学校にはじまる樟蔭学園は,伊賀駒吉郎(高松市出身)が初代校長として兼務し,創立を担った学苑である。

伊賀は,関西中等教育界の指導者でありながら,官公立教育の“共同体”とは独自の立脚点を保ち,私学教育に後半生を捧げる。

とりわけ女子教育が軽視されがちな時代にあって,樟蔭の開校にあたっては,施設,備品類の完備につとめ,豪華に過ぎるとの批判にも理迫めて反証。

書籍類は,自ら上京し2週間にわたって神田神保町界隈を渉猟。良書を手当たり次第に蒐集し,浩瀚な学校図書の基盤をつくる。

初代校長 伊賀が蔵書の充実化を意欲した樟蔭の学窓から,戦後,ひとりの作家が誕生する。

後に創立90周年記念事業として,図書館と同じ建物内に当該作家の文学館が創設され,作家の蔵書約1,500冊が新たに収蔵されることになる。

このことについては,第3部(10)(11)でふれる。

戦時下に樟蔭に学んだ村上の母にとって,伊賀の手がけた図書館は,平常時にもまして“個の回復スペース”であったのかもしれない。


大学在学中からジャズ喫茶を営み7年かけて卒業した村上は,「ノルウェイの森」でキヅキと直子を,研究者の道をあゆみながらも作品を著し,後に東大文学部長となる柴田翔は,「されど われらが日々-」で佐野と優子を,いずれも高校から大学在学中,あるいは卒業から日ならずして永訣させている。

キヅキの死の影響により,“まわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった”ワタナベは,ひとつの真実を学んだという。

死は生の対極としてではなく,その一部として存在している

「ノルウェイの森(上)」

しかし,直子の死はワタナベに,その真実もまた真理の一部でしかないことを教える。

どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ

どのような真理も,どのような誠実さも,どのような強さも,どのような優しさも,その哀しみを癒すことはできないのだ

我々はその哀しみを哀しみ抜いて,そこから何かを学びとることしかできない

「ノルウェイの森(下)」

東大総長退任から約2か月後の1958年(昭和33年)2月,矢内原は教育関係者の会合で「教育の本質と教育者の使命」と題した講演の最後に,教育界のかかえる時事的問題,教育の危機に臨むにあたり,“教育の本質”にたち返り,物事を考え直すことの意義を説いている。

道に迷った時には道路の分岐点にたち返って,再出発すればいい

何を目的として教育するのであるかという別れ目にたちかえって,そこで考え直してみることが有益だろう

「教育の本質と教育者の使命」

この講演後の同年10月,同時代に生きる全国の大学生が,心身ともに健康で創造的な充実した学生生活を送るための援助を目的として,矢内原は「学生問題研究所」を創設する。

戦後の激しい社会的変化のために,人格発達の途上においても複雑な社会的要因の影響を受けているものと思われます

したがって現在の大学生の問題は,世代を異にするものには直感的には理解しがたいものとなっており,(中略)新しい構想による研究の必要が痛感されます

「「学生問題研究所研究報告」の刊行に当って」

矢内原の創設した「学生問題研究所」は,社会学的,心理学的,哲学的思想的に学生問題を研究し,研究成果を報告書として公表するとともに,学生相談所を併設して,人生問題,家庭問題,学習上の問題などの学生の悩みに向き合い,矢内原自身も面会し助言を与えた。

矢内原総長の時代に東大生であった柴田翔が,「されど われらが日々-」で,同世代にからみついた葛蔓を告白し,次の世代に思いを託したように,“次の世代”である村上春樹もまた語っている。

おそらく僕らはみんな,それぞれの世代の空気を吸い込み,その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく,それが自然の成りたちなのだ。ちょうど今の若い世代の人々が,親たちの世代の神経をこまめに苛立たせ続けているのと同じように

「猫を棄てる」

哀しみを哀しみ抜いて再出発する時,たち返る分岐点は,キズキそして直子と永訣した日,あるいは古書店でH全集の一冊を手にした,あの秋の日・・・ 
 (つづく)

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