興亡 潮流と電流~名も奇抜なる瀬戸内海横断電力株式会社(2)
芸予諸島での文明の光“電燈”の導入は,因島にはじまる。
明治45年(1912年)に設立された因島電気株式会社が,大正4年(1915年)にガス力30KWの発電設備をもって,因島一円を供給区域として営業を開始した。
この因島電気は,設立早々からして波乱含みであり,点燈までに3年を要することとなった。
発起人となり設立とともに社長に就任したのは,“関西の電気王”とも称された才賀藤吉。明治3年(1870年)大阪で生まれた才賀は,叩き上げの電気事業創業者である。大阪電燈株式会社での見習員から始まり,電気界での成功を志して,京都に才賀電機商会を創業したのは明治29年(1896年)。自らも出資者となり全国各地に電燈会社,電気鉄道会社を設立し,急速に事業を拡大。関与した会社は百社を超えるとも言われた。
しかし,“無資本の藤吉が,かく急速に事業を発展させるには,資本関係に無理があったことはいうまでもない”。才賀が破綻をきたすのは,まさに因島電気を創業した直後,明治天皇崩御を発端とする。
北浜銀行の岩下清周は,資本金二百万円で日本興業株式会社を創立し,才賀商会の営業及び資産負債を引継ぎ,才賀は一社員として社業に従事し再起を図ることとなった。
ところが,北浜銀行に取付け騒ぎが生じ,岩下は頭取を辞任したため,日本興業は破綻。才賀藤吉は大正4年(1915年)7月失意のうちに病没した。同年,岩下は背任等の罪科により告発を受け(北浜銀行事件),大正12年(1923年)大審院の確定判決により懲役に服した。
以上の通り,因島電気株式会社は設立から激流に巻き込まれるのであるが,大正4年(1915年)1月才賀が社長を辞任したことを受けて,大阪で架線材料の販売,設計監督を業とする新井商会の経営者 新井栄吉が,社長に就任し,同年5月待望の文明の灯が因島にもたらされる。
因島に電燈が灯ると,生口島,高根島の住民から送電の要望が届く。
しかしながら,村上水軍が縄張りとした海峡は潮流激しく,海底電纜を敷設するのは困難。考究を重ねた新井は,鉄塔を建て長さ約3千尺(約909m)の架空送電線による送電を実現した。
生口島,高根島に電燈が灯ると,次には生名島,岩城島をはじめ近傍の十数群島から送電の要望が届く。新井の因島電気は
躍進勇ましい新井だが,難題に思いが及ぶ。
ついに新井は,壮大なる構想を企てる。
新井による四国地方水力発電への着眼点は,経済地理的な研究に基づいている。松山市周辺を供給区域とする伊予鉄道電気は,既に土佐との国境近く,仁淀川水系黒川に水力発電所を稼働させていた。新井は,中国地方の水源地としての石見地方と比較し,四国側の優位性を次の通り主張する。
土佐の山地の殆どは官有林であり,杉檜が密生し,河水涵養の山林としては理想的であること。伊予側から国道,車馬道が通じているため水力発電所建設費を安価に抑えられること。何よりも,吉野川,仁淀川の大河に象徴されるように,四国太平洋側の高原地は全国屈指の降雨量を誇るとともに,石見地方とは降水期を異にしている。
四国から供給する電力の広島側での需要見通しについて,新井は芸予諸島の需要家はもとより,電力不足に苦悩する広島県内の電気事業者等への供給に触れた上で
火力発電で賄う呉工廠と広工廠に土佐の水力電気を供給することにより,海軍は巨額の石炭費を節減できるとの理。国有鉄道の電化が議論されている時勢も捉えていた。
かくして,大正10年(1921年)12月資本金500万円(4分の1払込み)をもって,瀬戸内海横断電力株式会社を設立。因島電気の事業は同社に移譲される。(つづく)