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党と衆 忍ぶる玉梓 - 親王の弓削島 内親王の生口島 第2部 弓削島(2)親王の卒業論文
林屋辰三郎の編纂した「兵庫北関入舩納帳」 (以下「入舩納帳」)は,先述の通り,文安2年(1445年)から1年間に兵庫港に入港した船舶(延べ1,960隻)について,船籍地(瀬戸内から九州まで107ヵ所),積荷の品目・数量(最大は塩),関料などの詳細を読み取ることができる,世界史的にも貴重な史料である。
1981年(昭和56年),この「入舩納帳」が上梓されることを知ったひとりの大学生が,この史料に基づいて,卒業論文「中世瀬戸内海水運の一考察」を作成することになる。
交通史でもなぜ私が,中世の瀬戸内海の交通を研究してみようと思うようになったか,その点についてお話ししましょう
それは,ある史料との出会いがきっかけでした。その史料とは,京都の歴史研究者である林屋辰三郎氏が昭和39年に京都市内の古本屋で偶然発見されたもので,たまたま私は,林屋氏からこの史料がまもなく活字になることを,卒業論文の準備段階でうかがっていました
この史料の刊行は実に私の研究にとりまして有益なものでした
学習院大学文学部史学科に入学以来,交通史の研究に関心を寄せられ「日本中世史ゼミ」に所属していた徳仁親王(当時)は,卒論のほかにも,論文「「兵庫北関入舩納帳」の一考察 問丸を中心として」も執筆され,「交通史研究 第8号」(交通史学会 1982年)に掲載される。
偶然が折り重なる「入舩納帳」上梓とのめぐり合わせには,次の一節が符合するのかもしれない。
偶然とみえる無数の事柄が重なって,その動作が行われたにせよ,その動作が起きないということは決してありえなかったという意味で,それは宿命であった
徳仁親王は「入舩納帳」に記録された積荷の品目に関する論点を考察される。
積荷の品目としては,塩,米,木材などの品名が記載されているもののほか,“備後” “小嶋”などの地名のみが記されているものがある。
この点について,徳仁親王は“塩の産地”を称しているとの解釈を支持されている。
時代背景として,製塩盛んな瀬戸内海にあって,運搬物資としての“塩”の位置付けが変容していることが指摘される。
東大寺,東寺などの荘園領主への年貢輸送から,産地ブランドを冠した流通商品としての“塩”への移行過程ともみられている。
「入舩納帳」に関する考察を作成後の1983年(昭和58年)から,徳仁親王はオックスフォード大学に留学される。2年4ヵ月におよぶ学究生活の集大成として,論文「The Thames as Highway」を執筆し,同大学出版局から上梓される。
この論文は18世紀テムズ川水運の実態について,当時の二大運搬物資であったモルトと石炭に着目して論考されている。
御用地を通じていた鎌倉古道から,道への関心を抱かれた徳仁親王は,海の道,川の道へ,塩からモルト,石炭へと,水運史,流通史の研究を深められていく。
2005年(平成17年)に開催された学習院同窓会 桜友会での記念講演。
「中世における瀬戸内海水運について」のテーマで,徳仁親王は「入舩納帳」との出会いをふり返った後,時代背景としての荘園制度の変容,最大物資“塩”の流通について梗概を述べられるとともに,輸送業者と海賊との関係についても解説される。
この講演の際に聴衆に配布された資料の一つに「東寺百合文書」(国宝)があり、瀬戸内の輸送業者と海賊との関係について、この史料をもとに解説がなされる。
弓削島には京都の東寺が領有する荘園があり,この史料は,東寺から弓削島荘に派遣された使者の接待にかかる経費を,弓削島の代官が書き上げた文書です
「東寺百合文書」には,年貢塩を輸送するにあたり,警護を委嘱した相手に,報償としての酒肴料が支払われたことが記録されている。
酒肴料が支払われた「野嶋」は,村上水軍の一派である能島村上氏に関係のある人物と思われます。(中略)村上水軍に関係のある人物が警護にあたり,その報償として酒肴料を受け取った事実が見て取れます
「東寺百合文書」を配布し,弓削島と村上海賊を引き合いにだされた徳仁親王。
講演を準備されるに際し,卒業論文作成のため研究にいそしむ,学生時代の“あの夏の旅行”を思い出されたのではなかろうか。 (つづく)