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興亡 潮流と電流~名も奇抜なる瀬戸内海横断電力株式会社(4)

新井栄吉の打ち立てた瀬戸内海横断電力の大構想は,40年の歳月を経て実現することとなる。
高知県と徳島県の県境に水源を発し,太平洋にそそぐ奈半利川(流路延長61㎞)。流域3万haの国有林は,秋田,熊野と並び“杉の日本三大美林”とされる。

中小河川だが,上流の流域は年間降雨量4,000~6,000mmというわが国有数の多雨地帯で,しかもその落差が大きい。

電源としては古くから注目されていたが,森林軌道しかなく,道路事情がまったく悪いため,開発されたのは四国電力の轟発電所(出力800kw)だけだった。

戦後経済もようやく復興期に入ると,この電源地帯をいつまでも見のがしておけるはずがない。

昭和35年(1960年)電源開発株式会社(電発)にとり四国初となる長山発電所(出力37,000kw)が運転を開始した。
続いて,二又(72,100kw),魚梁瀬(36,000kw)の各発電所も稼働し開発が完了。奈半利幹線により120㎞先の伊予変電所(愛媛県西条市)と結ばれた奈半利川の水力電気が,ここから“中四幹線”に連系し,本州側へと送電されることになる。

中四幹線は,高度経済成長と電力需要の拡大に対応すべく,昭和33年(1958年)に発足した電力の広域運営体制のもと

四国の水力電源と中国・九州の火力電源とを連系させ,総合運用することによって西地域の電力融通や電源開発の経済性向上をねらったもので,その完成は西日本全体を超高圧送電線で結ぶことにもなった。

昭和34年(1959年)電発は,今治市に中四幹線建設所を設置し,
同36年(1961年)来島海峡 中渡島~大島より本工事を開始する。

中国と四国を,島づたいに送電線で結ぼうという構想はかなり昔からあった。古くは大正時代,瀬戸内海横断電力株式会社によって計画され,一部着工しながら未完成に終わった経緯がある。

また日発も戦後間もなく11万Vの送電線建設を計画,今治~三原,今治~呉の二つのルートを測量したが着工するに至らなかった。

電力再編成後も,関西,中国,四国の各電力会社,そして電発もそれぞれに調査を重ねていた。というのも,中国・九州地域には有力な水力電源が少ないため,どうしても火力中心にならざるを得ない。

ところが四国には大規模貯水池式発電所を開発し得る余地があった。したがって,中国と四国を結べば,安定的かつ低コストの電力が得られるという大きなメリットがあったからである。

33年4月,広域運営が発足するや,中央電力協議会はまっ先にこの中四連系線の建設を決定し,それを電発が担当することになった。

昭和37年(1962年)10月伊予変電所,波止浜,馬島,中渡島,大島,大三島を経て大久野島から忠海へ至る中四幹線(220KV)が運用を開始した。

大正10年(1921年)の瀬戸内海横断電力株式会社設立から40年。戦時供出による撤去を経て,芸予の海域に新たに建設された鉄塔群のうち,大久野島~忠海(径間2,357m)の塔高は226mを誇り,メッシナ海峡横断送電線(イタリア)の222mを抜き,当時の世界最高を誇った。まさに井上要の称した“摩天楼”となった。

世界に目を向けると,メッシナ海峡横断送電線にみられる径間3,646mを要するものも既に存在した。しかし,

多くの島づたいに長径間が連続する送電線は,世界でも初めてのものであった。技術的には世界の注目を集める難工事だったのである。

技術面に加え,芸予海域における架線工事については,船舶交通の要衝としての特性が指摘される。

作業中は船の航行を停止させなければならなかった。その間の作業時間は3~4時間という短さだったが,瀬戸内海は海の銀座であり,とくに来島海峡などは1日約1,000隻が往来する。

船舶への予告は慎重をきわめた。各海峡ごとに,架線工事による航行停止日時を印刷したPRパンフレットを1万から1万5,000枚もつくって関係方面に配布した。もちろん外国船にも周知徹底させる必要があった。官報の水路通報が40ヵ国語に翻訳され,万全が期せられた。

災害事故ゼロ,航行停止に伴う海難事故も皆無のうちに,新時代の瀬戸内海横断電力架空線工事は完了した。

本州と四国が電気的に架橋された。このメリットについて,電発は,次の通り摘示する。

電源の開発にしろ,設備の運用にしろ,その電力経済圏が広ければ広いほど,効率的に進めることができるのはいうまでもない。その点,四国は電力経済圏がせま過ぎた。それゆえに開発も運用も,これを効率的に行うことがむずかしかった。中四幹線がその壁を完全に打ち破ったのである。

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しかし,中四幹線のメリットはなんといっても,四国の水力と中国,九州の火力を連系させたことだ。その効用には,他の地域における連系以上のものがある。つまり,ただ電力経済圏が広がったのではなく,相互補完関係にあるものの結びつきを内容とする電力経済圏の拡大だったからである。

まさに,電力需要の緩い四国での電源開発に係る経済性問題を指摘した新井栄吉の見識と重なる。

さらに新井の想定をはるかに超えて,土佐 奈半利川の流れは,黒部川(流路延長85㎞),天竜川(同213㎞)の日本屈指の急流ともつながっていく。

本州・九州間は,37年3月,新関門幹線が22万Vに昇圧されたことにより,関西電力黒部川第四と佐久間の両発電所を起点とする西日本側の60ヘルツ系超高圧送電線網が完成したので,それに四国を連系させたことは,広域運営の経済性をますます高める基礎を強固にしたことになる。この歴史的意義はきわめて大きいといえよう。

この連系は,中国・九州地方への送電にとどまらず,四国への電力融通も可能とした。
昭和37年(1962年)四国地方は異常渇水に見舞われたため,電力需給が極度に逼迫。

連系開始と同時に,西地域広域運営の拠点変電所である伊予変電所をとおして中国,九州から四国へ連日4万~6万KWの異常時融通電力が送られたのである。中四幹線は,完成のその日から使命をまっとうすることになった。

以上,電源開発株式会社「電発30年史」

降水期の相違をもとに,石見と四国との補完可能性を論じた新井の見識は,四国側への融通という両面性をも有していたことになる。

しかし,明治,大正,昭和と続いた送電鉄塔と架空送電線をめぐる興亡は,まだ終焉とはならなかった。

海峡部に15基の鉄塔を擁し,波止浜から忠海へと通じた中四幹線も,兜を脱ぐことになる。
昭和63年(1988年)供用が開始された本州四国連絡橋 児島・坂出ルート(瀬戸大橋)に送電ケーブルを添架する方法等により,平成6年(1994年)香川県側と岡山県側とを結ぶ“本四連系線”が運用開始。これにより中四幹線はその本来の役割を終える。

広域運営としての役割を終えた中四幹線。
昭和37年(1962年)完成時,世界最高を誇った大久野島・忠海の送電鉄塔(226m)は,現在,中国電力ネットワーク株式会社大三島支線(110KV)10号,11号鉄塔として健在。再掲する井上要の詞のとおり,塔高日本一の座に相応しい雄姿を映している。

群嶋相擁して風光最も佳く,潮流急にして飛沫時に舷を洗ふ,此時甲板に於て眼を左右に放てば南北の山上高く天を摩す鐵塔の聳つを見るであらう。

井上要「伊豫鉄電思い出はなし」

平成3年(1991年)竣工の東京都庁第一本庁舎(243m)を想像すれば,海上の摩天楼ぶりを更に実感できる。(つづく)

中四幹線 銘板 (大久野島)
忠海から大久野島を望む



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