不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(後編)
木村久夫がわずか半年の学究生活を断絶し,臨時招集に応じた1942年(昭和17年)10月,経済学徒の木村と入れ替わるかのように,京都帝国大学大学院哲学科に入学し,学究生活を始めた人物がいる。
菅季治 (かん すえはる) は,木村よりも1年早い1917年(大正6年)愛媛県宇摩郡津根村(現在の四国中央市土居町津根)の農家に生まれた。
5歳の時,生家は津根での農業をやめ,北海道常呂郡野付牛町(現在の北見市)に移住し,染物業を営む。
野付牛は,1897年(明治30年)坂本龍馬の甥 坂本直寛の率いる高知県移民団体 “北光社” が入植して開拓された地でもある。
菅は,同地で少年期を過ごし,1935年(昭和10年)北海道庁立野付牛中学校を卒業。木村が “私の一生の中,最も記念さるべき” 時と書き遺し,学究を自覚した “面河経験” の年(1939年),東京高等師範学校でソクラテス,ニーチェなどの哲学を学んだ菅は,東京文理科大学哲学科に入学し,哲学徒としての自己を確立していく。
1941年(昭和16年)木村が高知高校での再度の3年生として,休暇中は猪野々に逗留し経済学研究に没入していた頃,菅は,旭川師範学校に赴任し “心理及論理” を担当する。
もっとも,哲学研究への思い止みがたく,1年半で教職を辞して京大へ入学する。
“できることは,忘れられた一人の哲学青年の死を,私自身が納得できるように書きのこすこと” を自らに課して,1986年にソ連邦内で菅の足跡を追った澤地久枝は,この命題を果たした “私のシベリア物語” で,次の通り述べている。
招集が間近にせまっていることを悟った菅は,2つの論文 “人生の論理” と “哲学の論理” の草稿を大学ノートにまとめ,同じく京大で学んでいた石塚為雄に託す。その数日後の招集令状受信である。
英語力をかわれた木村が,通訳として南方のインド洋カーニコバル島に赴任した1943年(昭和18年),菅は北方の北千島要員として,陸軍北部第九十一部隊(帯広)に入隊する。
木村と同様にその語学の才に秀でた菅もまた,7年後に通訳者の悲劇を呼び寄せてしまうことになる。
北千島幌筵島から千葉の陸軍高射砲学校を経て,満州第1224部隊(関東軍)に赴任した菅は,奉天で敗戦を迎える。
武装解除を命じたソ連軍は,第1224部隊と第860部隊とを併合して,第25大隊(約900名)を編成する。別に編成された第26大隊(約500名)とともに,1945年(昭和20年)9月奉天からカザフ・ソビエト社会主義共和国にあるカラガンダ地区収容所への移送を命じられる。
日本人捕虜だけでも約1,500名にのぼる列車での長距離大移動である。
ところが,この約1,500名の大部隊に,正規のロシア語通訳は一人もいない状況であった。京大で半年にも満たない期間,初歩のロシア語をかじったのみで,アルファベットもおぼつかなくなっていた菅に,ロシア語通訳が命ぜられる。ここから運命は,菅の意思を超越して,過酷な末路へと向かう。
かくして,ロシア語修行をしながらの移送を経て,同年11月中央アジア カラガンダでの収容所生活がはじまる。この地で菅は28歳から32歳まで,通訳として捕虜生活を送ることになる。
木村がカーニコバル島で英語通訳を担ったことが,戦犯として極刑を宣告される直接の原因となったごとく,カラガンダの収容所での,ロシア語通訳が仇となって,菅を追い詰めることになる。
もっとも,木村は帰国することなく外地で命を散らしたのに対し,菅の場合,ダモイ(帰国)後,日本人による過酷な追及劇の舞台に立たされてのことではあるが,いずれにしても,同胞からの責任転嫁,政争政略の具とされての犠牲である。
1949年(昭和24年)10月,菅は4年を通訳として過ごしたカラガンダの収容所を後にして,ナホトカ港経由で,11月27日東舞鶴港にて帰国を果たし,12月6日に北見市の実家へと帰り着く。
(旭川師範学校在職中の1942年6月,市制施行にともない野付牛町を廃し北見市が置かれた)
菅は北見の自宅で,京大大学院哲学科に入学した年(1942年)に発刊された田辺元 “哲学概論” を読むなどして,哲学徒として再始動する。
北見の実家に1ヵ月ほど滞在した菅は,1950年(昭和25年)1月7日に上京する。現在の小平市にある弟の下宿に寄宿し,当面は東京教育大学(旧東京文理科大学)の聴講生として,“哲学の論理” “人生の論理” を浄書するなどして過ごす。
カラガンダの収容所から帰国の途についた菅の “戦後” は,あたかも1ヵ月単位の速力で,変転を遂げる。10月に収容所を出発,11月末の帰国,12月上旬の北見帰郷,翌年1月上旬の上京。これらの移動は,澤地久枝のいう “菅季治自身が求めた人生の旅” でもある。
しかし,2月8日のカラガンダからの “日の丸梯団” の帰国は,菅の “人生の旅” に終焉をもたらす使節となる。
2月16日の日記に,菅は自らの運命が流転し始めたことを記す。
いわゆる “徳田要請問題” である。
2月23日の参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会において,菅が通訳をしたことから,菅を証人として呼びたい旨,委員から発言されている。
“徳田書記長が「要請」した” と,菅が通訳したのか否か。菅が聞いたソ連政治将校の原発言がいかなるものであったのか。菅が証言し得ることは,この事実についてである。
3月7日に菅は,同委員会に対し書簡を送る。
として,記憶していたロシア語と通訳した言葉の双方を書簡に記述する。
“надеется” との発言があり,これをうけて自らは “期待している” と通訳した旨の事実を述べる菅。
これに対し,委員からは,英語のhope, expectの区別に関する独自の説までも引き合いにされて,なんとしてでも徳田球一からソ連当局への “要請があった” ことにすべく,単語の翻訳,解釈に関する,委員による自説の披露と,菅への糾問の場へと化していく。
谷口功一は,4月5日の衆議院考査特別委員会で繰り広げられた,いわば “人民裁判” について,評している。
戦犯法廷ならぬ衆議院の委員会に出頭して,“被告人” の立場にさらされ,論理を信奉する者にとっては,もっとも堪え難い “拷問” である詭弁と誤謬の集中砲火を浴びせられた哲学徒は,その “弁明” を遺して,翌日の午後7時25分頃,吉祥寺駅付近で列車に身を投じる。享年32歳。
遺体の上着ポケットからは,岩波文庫版 “ソクラテスの辯明・クリトン” が見つかった。
“せめて一冊の著述でも出来得る丈の時間と生命とが欲しかった。之が私の最も残念とするところである”
と遺した経済学徒の木村久夫は,蔵書を恩師 塩尻公明に託した。
哲学徒の菅季治は,4月5日の頁に次の通り書き留めて,日記を閉ざす。
学友 石塚為雄に託したのは,著書発刊への願いと,やはり蔵書であった。
大阪から高知へわたり,面河渓と猪野々の避暑地で学問に目覚めた木村久夫。
愛媛から北海道へわたり,北見,東京,旭川と,論理を求めての旅路を往来した菅季治。
ともに京都でのはかない学究生活を経て,南方と北方へと岐れた二人。
いずれの “弁明” も生前には果たされずとも,余白と遺稿に刻まれた学徒としての志は,さまざまに書冊となって,いまに受け継がれている。
(おわり)