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党と衆 忍ぶる玉梓 - 親王の弓削島 内親王の生口島 第2部 弓削島(1)”兵庫北関入舩納帳”
神戸高校に入学した村上春樹ではあるが,授業に身が入らず,神戸の港近くの古書店を訪れては英文小説を手にしていた1964年(昭和39年)の秋,京都の古本屋で,およそ520年前の兵庫の港に関する文書が日本史研究者の手にわたる。
昭和三十九年(1964)の秋九月のことであった。わたくしは京都市内の古書肆の店頭において,偶然に一個の古文書櫃を見出した。その内容は全くの未整理の状態で,多数の古文書を収めていたが,一,二を瞥見しただけでも知られる年代の古さから,たちまち強く研究意欲をそそられてしまった
わたしは文書の散逸をおそれ,大学の演習の教材にも使えると判断して,即座に購入を申入れたのであった
玉手箱ならぬ黒漆塗りの古文書櫃をあけて発見された文書は,15世紀中頃(室町時代)の瀬戸内海水運に関する記録史料として,中世史・瀬戸内海水運史の研究に寄与することになる。
現在の神戸市兵庫区和田岬付近にあたる当時の兵庫港は,関税徴収権が東大寺に属する北関と,興福寺に属する南関に分かれていた。
林屋辰三郎が発見した文書には,北関における文安2年3月から翌年正月までに入港したすべての船舶(延べ1,960隻)について,船籍地(瀬戸内から九州まで107ヵ所),積荷の品目・数量(最大は塩),関料などが詳細に記録されていた。
既に東京大学文学部が所蔵していた文安2年1月から2月までの記録とあわせて,林屋は,文安2年1月から翌年1月までの1年間(1445年から1446年)にわたる兵庫北関の通関史料として編纂し「兵庫北関入舩納帳」として,1981年(昭和56年)に上梓する。
林屋が古書店の店頭で偶然に発見,編纂した史料「兵庫北関入舩納帳」は,14世紀中頃のリューベック港(バルト海沿岸)における通関記録とならび,世界史的にも貴重な史料として評価されている。
このように,中世瀬戸内海水運の研究に多大なる貢献をした林屋ではあるものの,専門は中世を中心とした芸能史であり,京都帝国大学文学部史学科に提出した卒業論文は「近世初期に於けるの遊芸の研究」である。
私は中世の民衆生活に関心をもち,民衆の生む文化のなかでも,瞬時に消滅して史料を遺さない芸能というものに,どうしたら近づくことが出来るのか,史料のないものを歴史的に証明する夢のようなことを考えた
林屋辰三郎は1914年(大正3年),加賀藩政期からつづく金沢の茶商“林屋”に生まれる。
家業は石川県の特産“棒茶”を考案したほか,宇治木幡に茶園をひらき,“世界史的にも早い時期に茶の粉末エキスを創製”するなど進取の気風に富む。
現在は京都を拠点に“京はやしや”の商号で,首都圏などにも店舗を展開している。
北陸 金沢の出身ではあるものの,林屋は瀬戸内海とのゆかりが深い。
生母は,越前 武生本保(現在の越前市)の河野家の出身。祖父 通昉(みちあき)(茳州(こうしゅう))は漢学者で
河野家は,河野通有の裔と伝え,元亀・天正から,慶長にかけてこの地に土着したらしく(中略)茳州はその八代目にあたる
武生に隣接する日本海沿岸の河野村(現在の南越前町)には,伊予 河野氏にまつわる伝説がある。
足利時代に河野通有の一族が,南朝に属していたので,身の危険を感じて,南朝側であった河野にのがれてきたという
もっとも,河野の姓では敵方に知られるので,姓を中村と変え,代わりに地名に河野を遺したという。
その後この河野の一族は,(中略)本保方面に進出した。今もある本保の河野一族は,その子孫であるという
本保出身の日本画家 河野菱渚(りょうしょ)の本姓は越智,名は通兄である。
伊予 河野氏に遡るとも伝わる母をもつ林屋であるが,伴侶となるのは神戸育ちで,父方は現在の広島県福山市の出身,母方は
旧姓村上で,河野と同じく瀬戸内海の海賊の出であった。海賊同士の子孫というのも面白いめぐり合わせであった
中世に活躍した河野と村上が,時代を経て,中世史専門の研究者 林屋によってふたたび結ばれる。
村上春樹が神戸の古本屋をめぐり,柴田翔が「されど われらが日々-」で芥川龍之介賞を受賞した1964年(昭和39年),林屋辰三郎もまた,京都の古書肆の店頭で,古文書櫃に“からみつかれた”のである。 (つづく)