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党と衆 忍ぶる玉梓 - 親王の弓削島 内親王の生口島 第1部(1)

行きつけの書店の書棚,旅先で立寄った図書館の書架もさることながら,不意にめぐりあった古書店に,いささかのためらいを秘めて足を踏み入れ,邂逅した本とあれば,思い入れもひとしおではなかろうか。

古本屋の古ぼけた棚,崩れ落ちそうな本の堆積の間に立ち尽した私は,何か奇妙なものにとらわれていた。それはH全集というよりは,その一揃であるところの,私の前に並び私の手にある一揃が,あるいはその一揃の持つある一つの奇異な雰囲気が,私の心に,いや,私の存在自体に,からみついてきているのだった

柴田翔の小説「されど われらが日々-」は,1955年を境とするあの時代を生きた学生たち - H全集にからみつかれた当事者たちの永別と旅立ちが,それぞれの“手紙”を通じて語られている。

高校2年からの党員であるH全集の元の所有者 佐野は,血のメーデー事件の現場から恐怖のあまり逃避した自己を“同志を裏切り,党を裏切り,自分を裏切ってしまった”裏切り者と思い定める。

大学に入学後は,その苦悩から逃れるかのように,駒場の細胞でも歴史学研究会(歴研)でも党員としての活動に自己を埋没させる日々の中,党からの指令により地下活動に潜行し,山村工作隊メンバーとして東北地方の山村に住みつく。

その単調な生活の中に生起する自分の個人的な欲望や,おそれを,どうおさえるか,やがて武装蜂起となった時,どうしたら自分が逃げ出さずに済むかを考え続けていました。

しかし,武装蜂起は起きず,1955年の第6回全国協議会において,党は軍事組織の解体と方針の転換を決定する。六全協が党員一般に与えた“自分が信じていたものが,崩壊した”という衝撃に加え,佐野は安堵感をも覚える。

ぼくが党員として通用するのは,革命が起きないうちだけでした。革命をおそれる党員。それは,何と滑稽な存在でしょう。ぼくは所詮,裏切り者でしかないのです。君も知っての通り,ぼくは学校へ戻ると,党を離れました

以上,柴田翔「されど われらが日々-」

“俺は裏切り者だ”―この想念から逃れ,自己を解放するため,佐野は友人にあてた長い手紙を擱筆し,睡眠薬による自裁をとげる。

現代日本政治を論ずる中北浩爾も,自著「日本共産党」で述べている。

コミンフォルム批判以来,党員が受けた傷は限りなく深かった。多くの負傷者や逮捕者を出した武装闘争は,無残な敗北に終わった

多くの人々が傷つき,疲れ果てて党を離れたが,武装闘争が誤りであったと六全協で評価されると,残った党員の間でも柴田翔が小説『されど われらが日々-』で描いたような絶望感が広がる

中北浩爾「日本共産党」

冷戦の激化,中国革命の成功などを背景に,1950年にコミンフォルムが,日本の共産主義運動の情勢について,党の平和革命路線を批判。
これを受けて党は,“1951年綱領”を制定する。

天皇制廃止などを掲げ,武装闘争による暴力革命へと方針を転換する。
党の指導による軍事路線に党員学生はもちろん,多くの学生が巻き込まれていく。

転機は1953年3月に訪れる。
51年綱領案の策定に関与したとされるヨシフ・スターリンが死去し,ソ連は平和共存路線へと動きだす。

7月に朝鮮戦争が休戦となり,10月には武装闘争を北京から指導していた徳田球一が死去するに至り,六全協による武装闘争路線の放棄へと進む。

作者の柴田翔が東京大学教養学部理科一類に入学したのは,1953年(昭和28年)4月。駒場のキャンパスで“多くの人々が傷つき,疲れ果てて”いく惨状を目の当りとする。

柴田が駒場での学生生活をはじめた時の総長は,矢内原忠雄(愛媛県今治市出身)である。

1951年12月に戦後第2代総長に就任するや否や,翌年2月には劇団ポポロ座事件が生じるなど,矢内原は,学内での実力行使を伴う事件,学生運動などに対処することになる。

大学の自治,学問の自由を堅守し,真理を探究することが学生,大学人に課せられた使命であると,戦前,政府による言論弾圧を経験した矢内原は訴える。

現今の共産党系学生は政治闘争の戦略的実践に専念し,それも自分独自のものでなく,党の指導方針の具体的実践ということに主力が置かれているようである

矢内原は,戦前の左翼学生が理論を研究する頭脳派であったのに対し,当今の学生活動家は“特攻隊的な行動派”であり,“暴力主義的・非合法的学生運動は,大学の自治と学問の自由を内部から侵害する”と,厳しく断じている。

政権獲得を志す政党の主観的判断に追随して,一般国民の行動に移すべきものではない。政党的宣伝や煽動によって行動することなく,社会の問題について正しき判断をもつためには,社会科学的認識を必要とする。この学問的認識を教えるのが大学の任務であり,それを学ぶのが学生の義務であり,また特権である

矢内原忠雄「理性と実力・合法と非合法」

一部の発言者による戦略的実践あるいは主観的な判断に追随し,宣伝や煽動によって行動する・・・いま生起しているSNS等をめぐる社会的問題にも通じる,矢内原の警鐘といえる。

駒場の歴研部員であった節子は手紙の中で,佐野と同じく,自らの六全協体験を吐露する。

党の無謬性が崩れて行った時,私たちの中で同時に崩れて行ったものは,党への信頼であるよりも先に,理性をあえて抑えても党の無謬性を信じようとした私たちの自我だったのです

眼の前に存在する事実を健全な悟性で判断することをやめてしまった私たちには,自我と呼ばれていいものがあったと言えるでしょうか。その時,私たちにつきつけられたものは,私たちに自我が不在であること,私たちは空虚さそのものであるということでした

地下に潜行する直前の佐野と遭遇したことにより,H全集と当事者たちを結びつける役割を演じ,自らも“からみつかれて”しまう節子。

節子は一通の手紙を投函して,婚約者 大橋のもとを去り,佐野が山村工作隊として潜伏したかも知れない東北へと旅立つ。

一方,大橋の子を身籠った優子は,大学構内で睡眠薬により果てる。

節子に自我を呼び起こしたものこそ,大橋の部屋でみた一揃いの古本,すなわちH全集であった。

あの夜,帰りがけに何気なくあの一冊を手にとった動作は,宿命であった-,偶然とみえる無数の事柄が重なって,その動作が行われたにせよ,その動作が起きないということは決してありえなかったという意味で,それは宿命であった

手紙を読み了えた大橋は悟る。節子の旅立ち“正しい”と。

私たちはおそらく老いやすい世代なのだが,節子はまだ自らの老いることを拒否している。ことによったら,節子は私たちの世代を抜け出るのかも知れない

そうなのだ。あの晩秋の日,何とも判らぬ力に引きよせられて,今にも崩れそうな古本の棚からH全集の一冊を取り出したのは誰だったのか。(中略)そこから節子の別離が生まれたとしたら,あの時,抗いがたい内心の声にうながされてH全集を手にとった私こそが,ひそかに節子の自分からの別離,節子の新しい出発,を望んでいたのではなかったのか

H全集がからみつき,意思に反してまでも買わせたものは,あの同時代を生きたすべての者にあったものかもしれないと,大橋は思いをめぐらす。

同じ時代を生きた人たちの願いや怨恨までもが,偶然を装ってひとつの行為を呼び起こすものであると。

やがて,私たちが本当に老いた時,若い人たちがきくかも知れない,あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じように困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども

私たちはそれと馴れ合って,こうして老いてきた

だが,私たちの中にも,時代の困難から抜け出し,新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと

そして,その答えをきいた若い人たちの中の誰か一人が,そういうことが昔もあった以上,今われわれにもそうした勇気を持つことは許されていると考えるとしたら,そこまで老いて行った私たちの生にも,それなりの意味があったと言えるのかも知れない

新しいい生活へと節子が踏み出した先は,小さな町での英語教師。新卒者が応募しないような,田舎の学校の求めに応じてのことである。

東京育ちの私の想像とは,ましてや自分の仕事という私の希望とは,全くかけはなれているかも知れません。ですが,そこには,少なくとも,英語を習おうとして私を待っている人たちがいます。そこでは,私の英語の知識が必要とされるのです

以上,柴田翔「されど われらが日々-」

柴田翔の入学した1953年4月東大入学式において,矢内原は祝辞の中に,次の一節を含ませている。

諸君の学ぶところを,諸君自身の利益のために用ひず,世のため,人のため,殊に弱者のために用ひよ。虐げる者となることなく,虐げられた者を救ふ人となれよ。諸君の生涯を高貴なる目的のためにささげよ

矢内原忠雄「入学式のことば」1953年4月11日

党というひとつの観念への忍ぶる思いが,(かずら)へと化身して一冊の古本にからみつき,されど,託された長い手紙により浄められ,(つる)がほどかれていく作品-といえるのではなかろうか。(つづく)


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