党と衆 忍ぶる玉梓 - 親王の弓削島 内親王の生口島 第1部(1)
行きつけの書店の書棚,旅先で立寄った図書館の書架もさることながら,不意にめぐりあった古書店に,いささかのためらいを秘めて足を踏み入れ,邂逅した本とあれば,思い入れもひとしおではなかろうか。
柴田翔の小説「されど われらが日々-」は,1955年を境とするあの時代を生きた学生たち - H全集にからみつかれた当事者たちの永別と旅立ちが,それぞれの“手紙”を通じて語られている。
高校2年からの党員であるH全集の元の所有者 佐野は,血のメーデー事件の現場から恐怖のあまり逃避した自己を“同志を裏切り,党を裏切り,自分を裏切ってしまった”裏切り者と思い定める。
大学に入学後は,その苦悩から逃れるかのように,駒場の細胞でも歴史学研究会(歴研)でも党員としての活動に自己を埋没させる日々の中,党からの指令により地下活動に潜行し,山村工作隊メンバーとして東北地方の山村に住みつく。
しかし,武装蜂起は起きず,1955年の第6回全国協議会において,党は軍事組織の解体と方針の転換を決定する。六全協が党員一般に与えた“自分が信じていたものが,崩壊した”という衝撃に加え,佐野は安堵感をも覚える。
“俺は裏切り者だ”―この想念から逃れ,自己を解放するため,佐野は友人にあてた長い手紙を擱筆し,睡眠薬による自裁をとげる。
現代日本政治を論ずる中北浩爾も,自著「日本共産党」で述べている。
冷戦の激化,中国革命の成功などを背景に,1950年にコミンフォルムが,日本の共産主義運動の情勢について,党の平和革命路線を批判。
これを受けて党は,“1951年綱領”を制定する。
天皇制廃止などを掲げ,武装闘争による暴力革命へと方針を転換する。
党の指導による軍事路線に党員学生はもちろん,多くの学生が巻き込まれていく。
転機は1953年3月に訪れる。
51年綱領案の策定に関与したとされるヨシフ・スターリンが死去し,ソ連は平和共存路線へと動きだす。
7月に朝鮮戦争が休戦となり,10月には武装闘争を北京から指導していた徳田球一が死去するに至り,六全協による武装闘争路線の放棄へと進む。
作者の柴田翔が東京大学教養学部理科一類に入学したのは,1953年(昭和28年)4月。駒場のキャンパスで“多くの人々が傷つき,疲れ果てて”いく惨状を目の当りとする。
柴田が駒場での学生生活をはじめた時の総長は,矢内原忠雄(愛媛県今治市出身)である。
1951年12月に戦後第2代総長に就任するや否や,翌年2月には劇団ポポロ座事件が生じるなど,矢内原は,学内での実力行使を伴う事件,学生運動などに対処することになる。
大学の自治,学問の自由を堅守し,真理を探究することが学生,大学人に課せられた使命であると,戦前,政府による言論弾圧を経験した矢内原は訴える。
矢内原は,戦前の左翼学生が理論を研究する頭脳派であったのに対し,当今の学生活動家は“特攻隊的な行動派”であり,“暴力主義的・非合法的学生運動は,大学の自治と学問の自由を内部から侵害する”と,厳しく断じている。
一部の発言者による戦略的実践あるいは主観的な判断に追随し,宣伝や煽動によって行動する・・・いま生起しているSNS等をめぐる社会的問題にも通じる,矢内原の警鐘といえる。
駒場の歴研部員であった節子は手紙の中で,佐野と同じく,自らの六全協体験を吐露する。
地下に潜行する直前の佐野と遭遇したことにより,H全集と当事者たちを結びつける役割を演じ,自らも“からみつかれて”しまう節子。
節子は一通の手紙を投函して,婚約者 大橋のもとを去り,佐野が山村工作隊として潜伏したかも知れない東北へと旅立つ。
一方,大橋の子を身籠った優子は,大学構内で睡眠薬により果てる。
節子に自我を呼び起こしたものこそ,大橋の部屋でみた一揃いの古本,すなわちH全集であった。
手紙を読み了えた大橋は悟る。節子の旅立ちは“正しい”と。
H全集がからみつき,意思に反してまでも買わせたものは,あの同時代を生きたすべての者にあったものかもしれないと,大橋は思いをめぐらす。
同じ時代を生きた人たちの願いや怨恨までもが,偶然を装ってひとつの行為を呼び起こすものであると。
新しいい生活へと節子が踏み出した先は,小さな町での英語教師。新卒者が応募しないような,田舎の学校の求めに応じてのことである。
柴田翔の入学した1953年4月の東大入学式において,矢内原は祝辞の中に,次の一節を含ませている。
党というひとつの観念への忍ぶる思いが,葛(かずら)へと化身して一冊の古本にからみつき,されど,託された長い手紙により浄められ,蔓(つる)がほどかれていく作品-といえるのではなかろうか。(つづく)