まい すとーりー(6)点字誕生の興味深いエピソード
霊友会法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
(『法友文庫だより』2015年冬号から)
視覚障がい者にとって最もかけがえのない点字ですが、日本の点字がまさに神の意思、もしくは深い縁(えにし)によって誕生しているので、そのことを述べてみたいと思います。
人類が文字を持ったことで文化も教育も発展し、生活が便利になったことは疑う余地のない事実でしょう。まして、視覚障がい者が点字を持ったことは、闇を照らす希望の光を得たにも等しいことだと思います。
点字を発明したのは、フランスの天才失明少年ルイ・ブライユです。1825年、16歳だった彼が点字を発明しました。
そのヒントがひらめいたのは、フランスの軍人シャルル・バルビエが作った12点の軍事用の暗号を見たときでした。
ブライユは、鋭敏な感覚が指先の狭い範囲に集中している事実を知り、点字を作るなら、もっと点を減らして、書き易く読み易いものにすべきだと考えて、6点の組み合わせによって、アルファベット、数字、楽譜などを考案したのでした。
一方、日本の点字は、目が健常な元小学校教師の石川倉次(いしかわ くらじ)によって作られました。
基本はブライユの6点方式ですが、日本語には50音の仮名があることから、日本固有の仮名文字体系を作らねばなりませんでした。6点でできる組み合わせは64通りですが、同じ形で位置だけ違うものを差し引くと44通りにしかならず、6文字足りません。石川倉次の苦悩は、その制約をどのように乗り越えるかから始まりました。
点字はさらに、大文字・小文字を書き分けられないこと、濁音・半濁音の付け方をどうするかなど、難問にはばまれ、3年に及ぶ大研究になってしまいました。
さて、盲と無縁の世界にいた石川倉次が、なぜ盲唖学校に勤務し、点字を作る使命を担うことになったのでしょうか。
そこには宿命的な人との出会いがあったのです。
それを語る前に盲教育の始まりについて触れておきます。
日本初の盲唖学校である「京都盲唖院」が創立されたのは、明治11年のことです。2番目は東京の「楽善会訓盲院」で、京都より2年遅れの明治13年でした。
楽善会は数人の個人有志が発起人となって立ち上げた組織ですが、明治18年に文部省に移管されて訓盲唖院となり、その2年後に東京盲唖学校と改称されました。そして、そこに初代校長として就任したのが、東京女子師範学校幼稚園の主事だった小西信八(こにし のぶはち)でした。
この小西信八が凡人でなかったことが日本の点字を生み、盲教育を発展させる立役者になるのです。
当時盲教育で使われていた文字は、普通の文字を浮き出させた突字というものでした。小西校長は、初めて突字で行なわれる教育を見て、それがいかにも労多くして効果の少ない方法であるかを感じて胸を痛めたようです。
小西校長は「これは何とかしなければならない」との強い思いを持ち、さまざまな方法で研究していましたが、あるとき、教育博物館に欧米で使われている点字の資料があることを知り、それを借り出して生徒に教え実験してみました。
当事は、むろん日本の点字が無い時代であり、生徒に教えたのはローマ字綴りでした。教えてみますと、自分で書けて自分で読むことができた生徒たちの感動は大変なもので、満面笑みだったと伝えられています。それを見て小西校長は、日本の点字を作る必要性を痛感したと言われています。
小西信八と石川倉次の宿命的な出会い
では、なぜ幼稚園の主事だった小西信八が訓盲唖院の校長に就任することになったのでしょうか。残念ながら、それについてはほとんど分かっていませんが、単に事務的な人事でない特別な推挙と計らいがあったことが考えられるほか、小西信八自身の盲唖教育への情熱が、その地位に就かせたのではないかという見方もされています。
とにかく、彼が突字から点字への切り替えを思い立ったことは大英断でした。しかし、点字作りを誰に託すべきかについては大いに悩んだことでしょうし、容易に適任者を得なかったことは想像に難くありません。
ところが、実に思わぬところで縁の糸がつながったのです。
明治17年1月に、東京・虎ノ門で、仲美千代(なか みちよ)博士が主催する仮名文字研究会が開催されました。国語・国字に関心を持ち、仮名文字論者でもあった小西信八も石川倉次も、その会に出席していました。今日、「仮名文字研究会」なるものが存在するのかどうか知りませんが、もし存在していれば興味深いことです。
それはさておき、最初に小西に声をかけたのは石川倉次でした。主催者の仲美千代博士と間違えて挨拶をしたのです。
「仲先生でいらっしゃいますか? 私は石川倉次と申します。どうぞよろしくお願いいたします」とか言って名刺を出したと思います。
にっこりしながら小西は「いやあ 私は小西信八と申します。仲先生と間違えられるとは光栄です」と応じたことでしょう。
二人は、この出会いから熱い友情と信頼関係を育てていったのでした。
石川を盲唖学校教師に招く
やがて小西が楽善会訓盲院の校長になると、自分の片腕になって助けてくれる人が必要になりました。
小西校長は迷わず石川倉次に白羽の矢を立てました。そして、早速手紙を書いたのですが、当然のことながら、石川には盲教育についての関心も知識もありませんし、あまりに突然のことでもあったので断りの返事を書きました。
ところが、小西校長からは、「あなたのような熱心と親切と考え深さと好学の熱い心を持った人が盲教育には是非必要なのです」と熱誠あふれる重ねての懇請状が届いたのです。
石川は、どうすべきか迷いに迷って、返事を書くこともできずに数日間を過ごしていますと、そこへまた手紙が届きました。
「東京は物価も高い所なので、奥さんも共に勤めてほしい。それでも足りなければ自分の俸給を減らしてでもあなたの俸給を増やしたい」とまで記されてありました。さすがにその熱意に動かされて、明治19年3月、石川は、ついに訓盲唖院に奉職することとなるのです。
蜀の劉備が、諸葛孔明の庵を3度までも訪ねたという「三顧の礼」を思い出させるような逸話です。
点字に関する石川の業績は人のよく知るところですが、もし、あのとき石川が人違いをしなかったならば、小西との出会いもなく、日本の点字もおそらく今日のシステムとは異なったものになっていたことでしょう。
偶然が織りなす歴史のあやの面白さを感じるとともに、石川を見出して、その仕事を託した小西校長もまた日本の点字の誕生に深く関わった人として記憶しておかねばなりません。
石川倉次の言葉
「私は日本の盲人の心に目を与えるという考えで、ブライユ氏の6点を『め』にしました。もとより、私一人の力でできたのではないが、多年苦心の結果が我が国の盲人方に光を与えたのは喜び限りないことです。この点字が、今後我が国幾百万の盲人の明かりとなって、目明き以上の功績を我が文化の上に建てられる人の出て来られることを心から祈ってやみません」
石川の言葉に「日本の盲人の心に目を与えるという考えでブライユ氏の6点を「め」にしました」とありますが、これは、点字の6点が全部出っ張った状態が「め」であり、賽の目の六とも同形で、「目」をイメージできるからなのでしょう。
点訳の父 後藤静香
点訳奉仕運動の生みの親は後藤静香(ごとう せいこう 1884~1971)という社会教育家です。
大正7年に「希望社」を創設し、雑誌『希望』の出版を始めました。この雑誌の大正12年7月号を「盲人問題特集号」として盲人の救済を世に訴えました。希望社には盲人部が設置され、点字雑誌『かがやき』を創刊し、点字の教養書も出版しました。こうした活動は約10年続きましたが、希望社の経済的破綻(はたん)で事業は中断されました。
後藤は、「盲人の目を開けることは点字を普及し、点字書に親しませること、しかも、それは我々の責務である」と書き残しています。希望社の盲人部は中断しましたが、後藤の盲人に対する思いはいささかも変わることがなく、その思いが、やがて点訳運動へと発展するのです。
昭和15年、点字図書館開設の大望を抱いて本間一夫は後藤静香の門を叩きました。そこで、点訳者の養成こそが点字図書館発展の鍵であることを教えられたといいます。
後藤は、日本点字図書館創立1周年のパンフレットに「日本では婦人のたしなみとして生け花などのことを覚える。それも良かろうが、将来有識階級の婦人のたしなみという意味から、点訳をする流行を作りたい。その運動の徹底が日本の精神文化の水準を世界に示すものとして識者に注目せられねばならないと確信する」と記しています。
そのことについて、後藤自ら「初めの頃、点字に直すことを何と言っておったか、たぶん『点字に直す』とでも言っていたのでしょう。けれども、それでは長過ぎるから、うまい言葉が欲しかった。英語に直すことを英訳と言い、ドイツ語に直すことを独訳と言うのだから、点字に直すのだから点訳と言う。そう思って点訳という言葉を使いました。しかし、よく考えてみると、これはおかしいのです。英語を日本語に直すという意味と日本文を点字に書き換えるというのでは、同じ訳すと言っても、ちょっと違います。けれども、理屈はどうでも便利だからそうしてしまったのです」と語っています。この「点訳」という言葉は、今では主な国語辞典に掲載されるまでに普及しています。
日本の点字は今年125歳を迎えますが、これから先もっとも重要なことは、盲人自身が点字を一番の宝物として守り続ける強い意思を持つことです。それが点字の市民権を高め、合理的配慮の一つとして社会に認知させるメインポイントになるのです。市民権とは、『広辞苑』によれば、市民としての行動・思想・財産としての自由が保障され、居住する土地や国家の政治に参加することのできる権利」とあります。点字が文字として一般に通用しなければならないということになります。もちろん、まだそのような状況にはなっていませんが、点字での受験が可能になったり、選挙の投票ができるようになったり、食品や電化製品に点字が付けられたりして、行動・思想・財産としての自由の保障が進んでいます。盲人が、自ら点字を大事なものとして使い続けることが社会を変え、合理的配慮を増やしていくことになるのだと思います。
なお、この原稿には随所に『日本の点字100年のあゆみ』から表現を引用していますが、執筆者・阿佐博(あさ ひろし)氏[日本点字委員会顧問]のご承諾をいただいていることをお断りしておきます。