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まい すとーりー(28)運命の予言者 Aさんご夫妻

霊友会法友文庫点字図書館 館長  岩上義則
『法友文庫だより』2021年秋号から


思わぬところで聞いた恩人の名

 あれは2020年11月23日、とある講演会が行われた直後のことでした。聴取者の中にいた一人の視覚障がい者が私を訪ねてこられました。

「国分寺に住んでいるSと申します。もう、かなり前のことになりますが、あなたをよくご存じのAさんの奥様が『岩上という人を知らないかなあ。うちが、よくマッサージを頼んだときに来てくれた文京盲学校の生徒だったんだけど、マッサージに来るだけでなくてね、ほとんど毎週、日曜日にうちへ遊びにきてね、食べたいだけ食べて、好きなだけ昼寝して帰っていく生徒だったのよね』と涙ながらに話していましたよ」

 それを聞いた私は、当時の思い出が噴水のように吹き出してきて、しばし茫然。S様との会話も舌がもつれて喋れなくなるほどでした。


 私にとってAさんご夫妻は、足を向けて寝られない大恩人です。にも関わらず、ぷっつり縁が切れて50数年、「国分寺へ引っ越す」と聞いてはいたものの、その後は全く音信不通で、住所も電話も分からぬまま。すでにご夫妻とも亡くなっておられるようです。もちろん私の胸中には、消えようのないAさんご夫妻のこもごもが濃厚に存在しています。

「あのご夫妻は、なぜ私が東京を去ろうとするのを、あれほどまで強く引き留めたのだろうか?」

 その謎は今も解けないままですが、Aさんご夫妻には、盲学校に在席した2年間の大半、言い尽せぬお世話になりました。中でも、Aさんが誠意を込めて言われたあの大きなアドバイスが無かったら、私が全く別の人生を歩むことになっていたであろうことだけは確かです。

Aさんご夫婦の不思議な予言

 私が、昭和39年3月に東京都立文京盲学校の専攻科を卒業して帰郷の準備を進めているときでした。Aさんご夫妻が私の帰郷を知って、「岩上さん あなた、せっかく東京へ出てきたのに、どうして都落ちなんかするのよ。絶対に反対だわ。夫も同じ考えだからね」と奥様が私の学生服に取りすがるようにして仰るのでした。
 ご主人も「あなたは、故郷に家が用意されていて、そこでマッサージや鍼・灸を開業すると言ってるけど、私たちは、あなたは東京に居てこそ個性を活かせるような気がするし、別の幸せにも恵まれそうに思えてならないんだよね。できるだけ力になるから、東京で仕事を探しなさい」と二人で我が子を諭すように言うのでした。

 同期の卒業生は17人でしたが、その中で身の振り方が決まらないのは私だけ。他の同級生は病院に勤務、治療院に就職、開業などが決まっていて、しっかりと社会の第一歩を踏み出す準備ができていました。
 それにしても、東京に居ろと言われても、寄宿舎は出なければならないし、食費も小遣いも無い。どうすればいいのか途方に暮れるばかりで、いかに考えても東京に身を落ち着ける見通しは立ちませんでした。Aさんには、それなりの覚悟があっての説得でした。

「あなたの宿と食事は、3月いっぱいに限って我が方で保障するよ。仕事探しに必要なお金も全額出してあげるからね」

 何とありがたい申し出でしょう。私のおよそのプランは、帰郷して開業することでしたが、東京に未練が無いわけではありませんでした。もし東京に良い仕事が見つかるのなら、それを選びたいのがやまやまでしたが、絶対無理な望みに思えて、90パーセントあきらめに傾いていた矢先の救済でした。「はい」と小さくうなずくだけでした。
 幸い、私の仕事はすぐに見つかりました。石川県立盲学校の先輩が、新宿高田馬場のK治療院に務めていたので相談したところ「おれ、今月いっぱいでここを辞めるんだよ。その後へ入れるんじゃないかな」と社長に訊いてくれた結果、即答でOKが出たのです。何と幸運な巡り合わせでしょう。
 A家に3月いっぱいお世話になるはずが、2週間で決着することになりました。それなのに、私の治療院務めはわずか9カ月で終わりを告げることになりました。翌昭和40年1月に日本点字図書館(以下「日点」)に就職することが決まったからです。

 読書が好きで点字の読み書きが速いのが点字図書館向きだと、創設者の本間一夫館長に認められたのか、本間館長が信頼を寄せる点訳者が金沢の人で、その人が私を推薦してくれたお陰なのかは分かりませんが、とにかく願っても無い進路が約束されたのです。そして、昭和45年10月には結婚の運びとなりました。運命を転換させる大きな波が次々とやってきたのです。これぞ、Aさんが言われた「東京に居れば別の生き方がある、別の幸せに恵まれそうだ」という予言の的中です。

目まぐるしい東京での日々

 ところで、Aさんのその後を伝えてくださったS様と日点との関係にもただならぬつながりを感じています。
 S様ご夫妻が結婚されたのは昭和45年5月5日だそうですが、お2人の仲人を積極的にかって出たのが、日点の終身理事で、本間館長の片目とも片腕とも言われた加藤善徳(かとう よしのり)さんだったのです。しかも、S様の奥様になられた方は、以前から「加藤さんが良い人だとお勧めくださるのなら、その人が視覚障がい者であっても一向にかまいません」との意思表示をされていたとのこと。それで、S様が加藤理事のおめがねに叶う適任者として選ばれたという話は、私を大いにしびれさせました。

 そして、S様ご夫妻が華燭の典を挙げられた場所が、他ならぬ日点の集会室だったというのも面白いです。加えて、そのとき、式場の設営やら新郎・新婦の案内を務めたのが、42年に日点に就職していた我が妻だったというのもでき過ぎた話です。この辺の話は私にとっては全て最近聞いた初耳の話題ばかりです。ただただ、一人一人に巡りくる深いご縁や天の計らいに、不思議と驚きと感謝あるのみです。

 このように、天の恩恵に感謝しつつも、その一方でその後のAさんとの再会を許さなかった天の冷淡さを問いただしたいほどに無念さがあります。私の不義理がいけないのか、自立・独立の妨げにならないように配慮してくださったAさんご夫妻の親心的思いやりがなさしめたものなのかどうか、結局永遠の別離になってしまいました。
「こっちから電話するね」と言ったきりになったのは幾分か恨みが残りますが、再会の意思が偽りでないことは、涙の潤み声で交わした堅い約束が証明です。

 当時の社会の変貌ぶりと、それぞれの身に起きた生活環境の激変が大いに影響したのでしょう。
 昭和39年は日本で最初の東京オリンピック・パラリンピックが開かれた年でした。東京オリパラは、日本の戦後の復興ぶりを世界にアピールする絶好のチャンスでした。復興・発展を示す代表格が新幹線や東名高速道路の整備、テレビや洗濯機など家電製品の爆発的普及だったことは、当時を知る人なら誰もがそれを想起することでしょう。会社を経営するAさんの多忙ぶりもそうした景気の高揚に煽られていたことが考えられます。いかに私に会いたいと望んでくださっても、もはや実現困難な立場にいらしたのかも知れません。

 私自身でさえが、学生時代の余裕など無くなっていました。日点の発展は目覚ましく、まさに上昇気流に乗る勢いで、次々と先駆的な事業を始めていました。そんな中で、私も本間館長や加藤常務理事から期待をかけられることが多くなり、それなりの働きをするようになっていました。

 以来46年3カ月、加藤理事の「日点の発展は、あなた自身の人生を豊かにすることになるんですよ」と言われた重い言葉を教訓に任務を全うしました。そう言われてみれば、点字図書館の使命は、日点に限らず、視覚障がい者の福祉を総合的に担っていると言えそうです。日点は常にその中核施設として、盲人用具の開発・斡旋、デジタル時代をリード、デイジー化の推進、インターネットによる情報提供など、多分野に渡って貢献してきました。なるほど、加藤理事が言うように、日点の発展が私自身の人生を豊かなものにし、生活の質を向上させているのです。

 それもこれも、Aさんご夫妻の「東京に居てこそ別の幸せに恵まれる」と言われたあのアドバイスこそが、私の運命を決定づけたのだと感謝し、思い出す度に感慨を新たにしています。

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