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まい すとーりー(32)点字図書館歴60年―たたき上げの述懐【2】

霊友会法友文庫点字図書館 館長  岩上義則
『法友文庫だより』2025年冬号から


一人暮らしの6年

 前回は、私が点字図書館歴60 年を迎えたというので、仕事上のことを書いたが、今回は暮らしについて書くことにした。
 初めて一人暮らしを始めたのは日本点字図書館(以下、日点)に就職する前年の昭和39 年10 月からで、東京オリンピックの時期と一致する。それから昭和45 年に所帯を持つまでの独身時代に、住まいが5回変わっているが、それぞれにドラマを経験した。
 そこで、前半3回分のドラマを大まかに書いてみた。

4畳半のアパートから始まった一人暮らし

 視覚障がい者がアパートを借りるのはとても困難だと聞いていたが、私の場合、この件に関してはそんなことはなかった。たまたま理解のある家主に巡り会ったおかげかもしれないが、きわめて順調だったと言える。
 特に1回目などは「どうぞどうぞ」の雰囲気で賃貸契約が結ばれた。家賃は4畳半で7千円。ただ、当時はこの金額でも苦しくて、3カ月後には3畳(5千500 円)に替えた。
 ここではトイレと台所が共同だったので、使用時間が重なって困ることもあったが、同じフロアに住む人が親切で、助けられることが多かった。鍋釜を洗ってくれたり、ごみ出しを手伝ってくれたりして、ありがたかった。

 でも、この内堀荘というアパートは2年しか住めず長続きしなかった。昭和41 年6月に入ったとき、「アパートを建て替えるので3カ月以内に引っ越してほしい」と言われたのである。
 家主はその代わりもう1軒物件があるのでそこへ移ってはどうかと言ってくれたが、その場所は小田急線の沿線で下北沢だと言う。それだと電車で30 分も通勤しなければならない。当時の私には電車で通うなど考えられなかったので即座に断った。しかし、次に住む場所の目当てがないので仕方なく不動産屋へ相談に行った。

 不動産屋の職員と対面すると、最初に
「あなたが一人で住むのなら紹介は難しい」
 と冷たく言われた。
 がっかりしたが、視覚障がい者の困難を聞いていたので「これだな」と身構えた。
「どうして難しいんですか」
 と聞くと、
「家主の立場としては、目が見えない人に貸したら火事を出される心配があるので怖がるんですよ」
 という返事。
「事例でもあるんですか」
 と再度聞くと、
「ありますよ。何軒からも断られています」
「私が聞きたいのは断られた事例ではなくて、視覚障がい者が借家で火事を出した事例です」
「それは知りません」
「火事を出した事例は無いと思いますよ。貸す側の思い過ごしでしょう」
 と言ったが、
「家主がそう言えば、こちらは引き下がるしかないんですよ」
 と繰り返すばかりで進展がない。
「そこを何とか交渉してくれないか」
 と食い下がる私を無視し続けながらも、こんな提案をしてきた。
「下宿屋はいかがですか」
 学生専門の下宿屋に当たってみると言うのである。
「私は学生ではないが」
 と言うと、それでも頑張ってみると言うので任せることにした。
 なるほど、下宿屋なら食事付きだし、部屋にはガスの設備もないから火事の心配がいらないということになるのだろう。
 やはりそうだったらしく、すぐに紹介先が見つかった。そこへ連れていかれて驚いた。時々マッサージに出張していた下宿屋だったからである。おかみさんとも親しかったし、すぐに話がまとまった。

鍵無し下宿屋の猫騒動

 住まいが決まったのは良かったが、入って早々に大変な事態が待ち構えていた。
 第1は部屋に鍵がついていないことだった。私には貴重品と言えるほどの金品はないので妥協することにしたが、とても不安だった。物を盗られないにしても、誰かに無断で部屋へ入られたり覗き見されるのは嫌である。
 この心配がすぐに的中した。
 仕事から帰ってみると、部屋の戸が30cm ほども開いていたり、他人の物が置いてあったりした。おかみさんが掃除に入ったり、管理上部屋を見回る必要があるからだと言う。でも、私はどうしても納得できないままで過ごしていた。

 次に起こったのは猫騒動である。
 部屋の暖房は電気こたつを使用していた。ある日、外から帰ってこたつに足を突っ込んでぎょっとした。何と! 3匹の猫がこたつの中で丸くなって寝ているではないか。
 猫嫌いではないが、それとこれとは異なる。腹が立ったので、1匹ずつ首をひっつかんで窓から放り投げた。猫は2階くらいの高さならくるりと宙返りして難なく着地することを知っていたから問題ないと思ったが、この猫どもは投げられまいとして私にしがみついてきたので、肩に爪を立てられてみみず腫れをつけられたりした。

 そんなことを何度か繰り返しているうちに、とうとうおかみさんに見咎められてしまった。下宿屋の猫だから、おかみさんは猫の味方である。
「なんてことをするんですか」
 とカンカンである。
「猫が勝手に部屋のこたつに入っていたら誰だって怒るでしょう。鍵がついてないからこんなことになるんです。すぐに鍵をつけてください。そうでないと、また猫を投げ捨てますよ」
 と宣言した。それで鍵がついて一件落着。
 その後に知ったことだが、他の部屋にはちゃんと鍵がついていて、私の部屋だけついていなかったそうだ。その件についての文句は言わなかったが、以前はうまが合っていたおかみさんとの関係がぎくしゃくしてきた。

 そして、決定的な出来事が起こった。これは無条件に私が悪いのだが、その話をする。
 私は時々、部屋の机や出窓付近の床掃除をしていた。その日も、バケツに水を汲んできて掃除をした。それが終わって水を捨てに行かねばならなくなったが、その日は、面倒くさくて出窓からバシャッと水をぶちまけてしまった。
 実を言えば、下宿屋の建物の構造をあまり理解していなかったこともあって、窓の下が玄関だとの認識がなかった。だから偶然とはいえ、水を捨てたときおかみさんが玄関へ出てきたのはアンラッキーとしか言いようがない。
 全身に、もろに汚れた水を浴びせられたのだからたまらない。おかみさんの怒りようはただ事ではなかった。おそらく、顔を真っ赤にして、歯をむき出して怒っていたのであろう。声はヒーヒーと上ずっていた。
「岩上さん、即刻出て行ってください」
 と絶叫した。
 無理もない。どんなに謝っても許されるわけがない。
「すみません。本当に悪かったです。出て行きますが、4、5日猶予をください」
 と頼んで何とか収まった。

泣きついた先は日本盲人会連合

 私は思案に暮れた末、当時日本盲人会連合(以下、日盲連)の事務局長(後に第5代会長)に就任した村谷昌弘氏に泣きついた。
 日盲連の事務局は、昭和23 年の結成以来、昭和39 年頃までもっぱら関西に置かれていたが、東京移転が決議されて、高田馬場へ移ってきていた。
 やがて、めでたく購入手続きが済んで日盲連のものになった。そこは、元国鉄(現JR)の古い職員寮だった。日盲連は、ここを根拠地として新たなスタートを切ったのである。
 建物は2階建てで、1階には事務所、会議室、食堂などがあった。2階の部屋は役員や会員が上京した際の宿泊所に使われていた。

 私は、そのうちの一室に住まわせてほしいと村谷局長に懇願したのである。局長はしばし思案の後、
「よっしゃ、置いてやる。ただし1年間にしてくれ。それと、門限だけは堅く守れよ。うちのばあさんは早寝早起きせんとあかんからな」
 と確約させられた。
 ばあさんというのは、村谷局長の母親のことで、建物の清掃や食事係をしていた。私の食事も、朝食だけ局長の母親の世話になった。食堂へ入っていくと、
「おはようさんどす、おいでやす」
 などと、本場の京都なまりで迎えてくれたものだった。

 村谷局長は、太平洋戦争でインパール作戦に従軍中、弾丸が顔面を直撃して失明した傷痍軍人である。「鬼の村谷」とまで呼ばれた頑固一徹の男で、事務局長の後は平成12 年までの10 年間、日盲連の会長として君臨した。私のような小童にはとても優しくて、日盲連でしばしば行われるビールパーティーにはその都度声をかけてくれた。

 それにしても、局長に確約した門限厳守が果たせなかったのは返す返すも申し訳なく面目ない。
 それは、石川県の金沢から上京した歌謡学院の上野学院長に義理を尽くそうとするあまりの失敗だった。事の顛末はこうである。

 その日は、上野学院長の上京を祝う門下生たちの集いが催され、私も門下生の一人として会に参加したのであった。
 飲むほどに、酔うほどに歌や踊りで賑わい、時を忘れるどんちゃん騒ぎになった。私も、すっかりその中で歌いまくっていた。気がつけば、へべれけに酔って、ろれつも回らない状態。夜も9時半。門限アウトの時刻になっていた。
 慌てふためいたがもう遅い。参加者への挨拶もそこそこにタクシーで戻った。

 玄関に立って、さてどうしようと思ったとき、金網の塀をよじ登ることを思いついた。自室の窓には鍵をかけてないので、ひょっとしたらいけるかも、といったんは希望を持ったが、上った位置と窓の位置関係がはっきりしないし窓へ飛び移ることも不可能だと気がついてあきらめた。そこへ、ガチャッと玄関の施錠が外されて戸が開いた。
「お帰りやす。局長が待ってはりまっせ」
 と局長の母親が声をかけてきた。
 私は事務室の応接セットのいすに、固く唇を噛んで座った。私がそばへ来たことを感じた村谷局長が立ち上がって後ろを振り向いた。どんな大声で怒り始めるのかと覚悟を決めて待った。
「岩上君、門限の約束があったな、どうしたんだ」
「すみません。弁解の余地はありません。1週間以内に出ていきますので、どうかお許しください」
 と素直に謝った。すると局長は
「おれは出て行けなんて言ってないよ。約束がなぜ守れなかったのだと聞いてるんだ」
 と言う。
「私の元歌の先生が金沢から上京したので、門下生一同で祝い酒を飲んで、時の経つのを忘れて騒いでいて、門限のことを忘れていました」
 と正直に言った。すると局長は意外にも、
「それはいい話だなあ。約束を破った罪は重いけど、若気のいたりということもある。許そう。でも、これからは気をつけるんだぞ」
 局長の寛容さに、感謝の涙が出そうになった。

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