![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/166444384/rectangle_large_type_2_59fb99df8251b789c9e11d42f8c441da.jpeg?width=1200)
まい すとーりー(29)母、思い患い108歳の歴史
霊友会法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
『法友文庫だより』2022年秋号から
親子の確執
私が108歳の母を思うとき、関連して思い出すのは、自分の左膝にくっきりと残る古い傷跡のことである。見えなくなって5年ほど経った10歳の夏休みのある日、実家(石川県能登半島志賀町)の近くの小川に沿って一人で走り回っていて、誤って転落したときのものである。深くえぐられた傷口からはドクドクと鮮血が流れ出し、その痛みは一夜を経過しても収まらなかった。それを見た母は、息子に数倍する心の痛みとショックを受けたようだった。
その2、3日前には、裏山の急斜面を野兎のように駆け下りてくる息子を見た母は「あぶない!」と叫ぶいとまも無く、合掌して神仏に祈っていたと、近所のおばさんが話してくれた。その頃から、私に対する母の態度が一変したような気がする。間もなく母は「決して単独歩行をしてはならないこと」「家族の目の届く範囲以外には付き添い無しで出かけないこと」の2つの禁止令を出したのである。もちろん、それを素直に受け入れる私ではないが、それから先10年以上も干渉がましいさまざまの注文が出されて、大いに困ったものである。
母の言い分は極めて単純なのだが、その執拗さと回数において私を苦しめた。すなわち、
「見えないと何もできないのだから絶対に無理してはいけない」
「見えないことは間違いなく危険なのだから、すべてを人様に依存すべし」
これに対する私も単純に応戦する。
「すべて人様に世話になるなどとんでもない」
「自分のすることはたとえあぶなっかしく見えても、確かな方法に従っている」
これにも母は食い下がる。「じゃあ、川へ落ちたり、裏山から駆け下りるのに、どんな確かな方法があるんや」と。
私は言う。「川の縁には土で固めた石の盛り上がりがある。落ちたのは、荷車が近づいてきたのでよけ過ぎて落ちただけ。裏山の坂道は、人の通る所が道なりにへこんでいて草も生えていない。そうしたものを確実にたどれば安全に歩ける」
母、思い患いの始まり
今年(※編集注:2022年)は寅年。母のハルも寅年で、めでたく108歳を迎えた。さすがに老いさらばえて植物人間に近い状態となり、施設に入って四六時中ベッドの生活を強いられる身となった。私も疲れ始めたが、母も並外れて長生きした上に願いを聞き入れない全盲の息子に疲れ果てた様子がにじみ出ている。
母は17歳のとき近所から嫁に来て2男・3女をもうけた。私は次男で下に3人の妹がいる。その内、長兄とすぐ下の妹が死んだので、健在なのは3人の兄妹である。
父は農林省の外郭機関(当時)に勤務する国家公務員であったが、在宅の時間が少ないので、母は一人で田畑を守り、我が子を育て、舅(しゅうと)の面倒も見なければならないから、ハードな労働と苦労は並大抵ではなかったろう。しかし、当時はそれくらいの負担をものともしない女性は珍しくはないので、母固有の悩みや苦労と言えば、やはり全盲の息子を持ったことであったろう。
3歳の頃から猫の目のような目つきをする息子を深く憂えながらも、鳥も通わぬ、いや、鳥しか通わぬ山間僻地の地理的な不便と戦時下にあっては名医を求めても巡り合う望みは叶わず、事実上2年近く放置したことが脳腫瘍の進行に気づかず、失明させたと悔いの思いが胸を塞ぐらしい。時々悲痛の涙を流していた。
母思い患いの歴史は、私が学齢期を迎えた時期に始まる。50年以上も昔の話になるが、
「かあちゃんおれを育ててきて一番辛く悲しかったことは何?」
と聞いたことがある。そしたら、母は躊躇なく
「それは、おまえを親元から離して金沢にある盲唖学校の寄宿舎へ入れろと言われたときだよ」
と言って次のような話を始めた。
「寺の奥様がやってきて、おまえを盲唖学校に入れてはどうかと言うんだよ。かあちゃんは即座に、それはできないと断ったんだけど、おまえまでが一緒になって学校へ行く行くと騒ぐもんだから、奥様はすっかり意を強くして、『おかあさん この話をなるべく早く進めましょうね。この子の1年の無駄は10年の成長の遅れを招くので大変な事態になりますよ』と言って帰っていったんだよ」
「それでどうしたの?」
「奥様は毎日のようにやってきて、『今日は役場へ連絡しておきましたよ』『今日は盲学校の先生と話しましたよ』などと勝手に話を進めるんだよ。だからかあちゃんは啖呵をきったんよ。『この子は私の手元で育てることに決めているんです。この子一人の面倒を見るくらい何でもないし、この子が快適に住めるように納屋を改造すれば本宅よりよほど住み心地のいい部屋になるんです』と言ってやったんよ」
私はのけぞるくらいに驚いた。
「じゃあ、かあちゃんは俺を座敷牢に閉じ込めるつもりだったわけ?」
「座敷牢なんて、人聞きの悪いこと言わんでおくれ。きれいな部屋に住まわせて、毎日美味しいものを食べさせてやるんだから、どうして座敷牢なんだよ」
結論を言うと、母の意見は父にも反対されて、泣く泣く盲学校行きを承諾したのであった。
ところが、母にはもう一つ作戦があって、父にもそれを承諾させていたのである。その作戦とは、私が寄宿舎生活に3日経っても耐えられなければ、ただちに家へ連れ帰るというものだった。
強いホームシックの中で
私の、ピカピカの小学1年生は昭和25年に、2年遅れの8歳で実現した。
その年の4月6日、入学の準備のため、私と両親と3歳の妹の4人は寄宿舎へ出かけてすべてを整えた。そして日が暮れて、親子4人で最後の夕食を済ませた後、3人は「じゃあ帰るからね。元気で勉強するんだよ」と言って、私のそばから去っていった。
そのとたん、ものすごい悲しみと寂しさに襲われて、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。3時間余も泣いていたろうか、寮母さんの慰め上手に、少し気がまぎれて元気が出てきた。みんなで歌を唄い始めたとき、私もその仲間に加わるまでになった。
やがて消灯になり、寮母さんが添い寝してくれた安心感のせいか、睡魔が襲ってきて一夜が明けた。
最初の朝は寂しさの再開で明けた。家族の誰一人いない朝の経験は生まれて初めてである。寮母さんはそれを見て
「おかあさんは、また来ると言って帰ったでしょ。男の子なんだから、その言葉を信じて元気にしようね」
と、昨日の優しさとは別人のような厳しい口調で言った。
「でもう」と言いかけたのを制して「早く早く」と言って着替えを急がせた。
朝食時になって私も食堂へ連れていかれた。そして、重い気持ちで箸箱を開けようとしたとき、
「あっ、よっちゃん」
という声が微かに聞こえた気がした。
「んっ…」。息が止まった。
「今の声は…、確かに妹の声のようだったが…?」「でも、そんなはずはない」と気を取り直してご飯を口に運んだ。声はそれっきりだったので、やはり気のせいだと思った。ところが、それは気のせいでも何でもなく、食堂の片隅から両親と妹がしっかり私を見ていたのである。3人は隠れようともせず(隠れる必要もなく)存分に私の初日の寄宿舎生活を観察し尽くしていたのである。
ワクワクした学校生活
勉強は4月8日に始まった。同級生は7人(全盲4人、準盲⦅超弱視⦆2人、半盲⦅弱視⦆1人)。担任はT先生、副担任はS先生。
面白い本を読んでもらった。「おててつないで」の歌を教わった。動物の剥製を触った。初日の勉強の何と楽しかったことか! 野山を歩き回るのも楽しいが、勉強がこんなにワクワクするものとは思わなかった。
大きな声で笑った。悲しみや寂しさが吹っ飛んだ。それよりも、授業を参観して誰よりも喜んだのは母のハルであった。「喜びであんなに涙が出たのは初めてだったよ」と後に述懐していた。
誰が母を送るのか
日本における100歳以上の高齢人口は急速に増加している。私の出身地石川県内の100歳以上(2021年1月現在)は1309人、最高齢者は109歳。私の実家がある志賀町の100歳以上は30人(人口約2万人)で、母は志賀町のベスト1に躍り出た。
うれしい半面、心配事もある。誰が母の最後を看取り、野辺の送りをするかである。現在の状況では兄嫁にその任務がゆだねられているが、兄嫁とて86歳。私も80代で、妹も70歳。高齢問題はいろんな意味で深刻である。