映画「ククルス・ドアンの島」から執着について考える
昨日、映画「ククルス・ドアンの島」観たので、それを題材に「執着」について考える。
①~しなければならない思考
「ククルス・ドアンの島」 では冒頭にガンダムのパイロットであるアムロが繊細な心の持ち主であり、ちょっと精神的に追い詰められている。ブライトさんがアムロをぶったシーンの回想も出てきて、お互いに折り合いがつかない不器用な姿が描かれていた。
そんなアムロが追い詰められるのは「~しなければならない思考」にあると思う。ホワイトベースの人を守らなければならない。母親、父親の期待に応えなければならない…。環境の部分で巻き込まれた部分が大きく、アムロが「ありがとう、ごめんなさい」を素直に言えないクソガキであっても何故か許してしまうように観ていた。
同様にドアンも島の子ども達を守らなければいけない、そのために武力を行使しなければならないという思考に陥っていたと思う。最終的にアムロの一言で執着を捨てるのだが…
②人との関わりの中で自分を俯瞰する
①のように~しなければならない思考に陥ると、自分の能力に固執し、頑固になる部分がある。アムロはガンダムで戦ってきた実績、体験があるため、自分は周りとは違う、少し天狗になっている感じがした。作中ではあまり表現されていないが、同様にドアンも子ども達を守る=対等ではなく自分が上の立場という思い込みがあったのだろう。不自然に子どもがドアンすげー!と何度も言うシーンがあったのも匂わせの演出かな?
そして、アムロは同世代のこどもから、ガンダムの操縦はみんなできないけど、自分の役割をしっかりと自覚し、共同体(社会)の一員として生活していることを知る。また、ドアンもアムロという同じMSのパイロットという立場から自分の執着について指摘を受け、それを受容する。
私はこの同じ世代、もしくは同じ立場の人間から社会の一員であることを学び自覚するというのがこの作品のテーマであると思った。要は「一人では気づけないことってあるでしょ?」ということだ。
③こだわりと執着の違い
「こだわり」 は 喜び、「 執着」 には 苦しみがあると、上で貼り付けている本の中には書いてあった。これは同じ行動にも意味づけによって、捉え方が変わってくると言ったものか。初めはガンダムに乗るのが苦しい=執着状態だったアムロも最後には自発的にガンダムに乗り、島を守ります。
アムロの話はわかりやすいのですが、この映画のラストとしてドアンのザクをガンダムが沈めます。ドアンも同じように武力のせいで人を殺めたことに苦しんでいたが、島を守るためその武力(執着)を捨てられない状況でした。
ドアンのザクまで捨てなくても良かったんじゃない?と思う人が多いと思うが、これは内省(アムロの方法)だけでなく、他者の言葉を通じても、自分の執着は気づける=社会の一員になれ!と作品が伝えているように思えた。
④マズローの欲求段階とスキル
最後に、この映画を観て思い出したのがマズローの欲求段階説であった。チェンソーマンを以前読んだ時もこれに話が沿ってるなと感じた。
現代はスキル社会であり、個人として何ができるかが注目され、youtubeやSNSなどで一流の人をいくらでも見ることができる。会社勤めなんかも古い感じがする、公務員の自分はつくづく世間知らずと思う。うまく表現できないが、最近は「承認欲求の社会」に生きてる感じがする、恐らくアムロ青年もガンダムを動かすのが上手な一人のこどもなのに、周りの目から、自分の承認欲求を刺激されたことが執着に結びついた。
承認欲求だけ刺激され、満たそうとしても自己実現には到達できない。まず、社会の一員になったうえで、じゃあ守りたい社会のために自分は何ができるかor何を捨てるかを考えろと、この映画が言っているように感じた。