火事とケンカは江戸の華

2014-01-20T00:41:17.076+09:00

江戸時代は面白い。日本固有の文化が特殊な形で花開いている。<br /><br />現在の日本政府は江戸時代に習うべきことがたくさんあると思う。<br /><br />いっそ江戸城を再建してみればいいのではないかと思うほどだ。城というのは精神的なパワースポットになりうるもので、それが存在することにより周囲の人々の意識を中心部に集めることのできる優れものである。(※その集めた力を自分のためだけに使うなど、悪用する者もいる)<br /><br />

もし日本政府が「何もかも分からなくなった。これからどうしたらいいのか」と投げ出したくなったときには「江戸時代に戻ってみなさい」と言おうと思う。<br /><br />江戸時代では、火事や災害のときには幕府がお金を出して人々の長屋を再建したそうだ。そのために商人たちはこぞって材木などを提供したという。<br /><br />人の善意が善意を生むという好循環の社会である。<br /><br />

現在の日本は震災で家を失った人に対して「避難所から出ていけ」と言ったり、「自分で家を建てろ」と言ったりする。まさにこれは鬼畜の言葉である。こんなひどい言葉を平然と人に投げつけるのは、それだけ、私たちの現在の世界が温かみを失って冷たく冷え切っている証拠なのである。<br /><br />そんな世界の頂点には、氷の女王のような冷たい人間が君臨しているに違いない。人は常に上にいる者の真似をするようになっているからだ。(※宇宙の相似性)<br /><br />

江戸時代といえば「人情」である。<br /><br />数学者の岡潔さんは、「日本人には阿頼耶識というものがあり、外国の人間よりも深い情がある」と言われた。<br /><br />思えば「情」というものは、日本人が日本人たる核のようなものだろう。<br /><br />しかしこんにちの我々は「情」を持っているのだろうか。<br /><br />感情のままに自分の言いたいことをわめき散らしはするが、「他人に情けをかける」ということはほとんどなくなってしまった。情より金である。「情が欲しいなら金を出せ」というような、江戸時代の人が聞いたならば「鬼か魔か」というような世の中なのである。<br /><br />

そんな世界のために誰が汗水たらして働きたいと思うのだろうか。<br /><br />すべては金であり、金金金の世の中だ。<br /><br />まるで光のない暗黒世界で黄金の輝きだけにすがろうとする地獄の亡者のような世界である。<br /><br />まさしく私たちが現在生きている世界ほど「地獄」に似たようなものはないだろう。看守に支配された監獄のようなものである。<br /><br />私たちはそれをごまかして「監獄は監獄でも楽しい監獄」というようなおためごかしを言って生きているのである。キャッチコピーやスローガンを言えばみんなの意識がそうなると思っているし、実際そうなるのだからおめでたいものだ。<br /><br />しかし私は断固として言わねばならないが、どんなに知能の高い人物であろうとも、愛や情けに欠けていたらそれはただの「人格障害かサイコパス」である。<br /><br />そうした「サイコパス的世界」から脱していかねばならない。地獄の四丁目にバスが停まっている時間はもう終わってしまったからだ。<br /><br />

私たちは「冷酷、残忍、放置、先送り、事なかれ主義、安心・安全幻想」などから決別しなくてはならない。冷酷さと残忍さは温かみを持つことで乗り越えられ、放置・先送り・事なかれ主義は勇気を持つことで乗り越えられ、安心・安全幻想は知恵を持つことによって乗り越えられる。<br /><br />つまり「愛と勇気と知恵」である。<br /><br />

私たちの世界にはそれが欠けていた。テレビの中では愛と正義のヒーローが活躍するが、実際の我々は卑怯で卑屈で臆病な事なかれ主義者だったのである。<br /><br />

私はしばしば思う、素晴らしい物語を見せられた人間は素晴らしくなれないのではないかと。<br /><br />レ・ミゼラブルを見た人は、温かみのある人間になろうと考える。なぜなら冷たい人間、寛容さのない人間が登場する物語だからだ。<br /><br />しかし、仮面ライダーを見た人は、自分が正義のヒーローになれるとは思わない。「仮面ライダーがいるのなら自分は正義のヒーローにならなくていい」というような勘違いをどこかでしてしまうのではないか、と思う。<br /><br />ある意味では悲劇が流行っている時代のほうが世相はいいのかもしれない。<br /><br />こうした逆転性があるからこの世界は難しい。エネルギーの行き先というものが予測できないのである。ピンポン玉を叩いてみたら見えない壁に当たってはねかえってきた、というようなことがしょっちゅうある。<br /><br />

そうしたことを考えると「平和」と言っている世の中は争いに満ちているということになり、「安心・安全」としきりに繰り返す社会は、現状が危険で不安だということの裏返しである。<br /><br />私たちはおためごかしをやめて現実を直視しなければならない。<br /><br />

ゲド戦記の中で、ゲドは自分が呼び出した影に追われている。影と向き合うことは恐怖である。だから逃げ続ける。しかし彼の師匠オジオンは言う、「影に狩られるのではなく、影を狩るのだ。今度はおまえが影を追いかける番だ」。<br /><br />まさしくオジオンこそは最も優れた師である。<br /><br />作中では「オジオンは黙ってばかりいて何も教えてくれない人物」に思われ、それを物足りなく思ったゲドは優秀な師を求めて魔法学校へ飛び出していくのだが、その魔法学校でひどい挫折をして結局オジオンのところへ戻ってくる。<br /><br />「私はあなたのところに戻ってきました。出て行ったときと同じ、愚か者のままで」。<br /><br />

そのときのゲドは魔法学校で強大な影を呼び出してしまい、その影に怯える日々だった。<br /><br />そのときにオジオンがゲドにしたアドバイスが「影を追いかける番だ」である。<br /><br />そして物語の最後でゲドは影に一人で向き合い、影を抱きしめる。<br /><br />そのとき影は消える。ゲドと融合したのである。<br /><br />物語の最後にはこう書かれている。「自分の闇を知ったゲドは完全な者となった」。<br /><br />私たちは自分の闇を知っているだろうか。闇を生み出したのに、闇から目を逸らしているのではないだろうか。<br /><br />どうすれば闇を再び吸収することができるだろう?<br /><br />そのためには、やはり闇と向き合わねばならないのである。狩られるのではなく狩るのである。<br /><br />そのためには影、闇と戦わねばならない。戦いは疲れるものだ。ゲドも影との戦いで疲れ果てる。そして自分が死んでしまうのではないかと恐れる。しかし彼は勝利する。影と戦い、影に勝ったのだ。<br /><br />

私たちはあまりにも戦いを恐れていないだろうか。<br /><br />「安心・安全」は本当に命の本質なのだろうか。<br /><br />安心な世界は人を成長させず、安全な世界は人を退化すらさせるのではないか。<br /><br />私は「安心・安全」は悪魔の声であると思っている。そうして油断させて人類をますます窮地に陥れてしまおうという、ゲド的にいえば「影のしたたかな策略」である。<br /><br />すべての生き物は命の危機に瀕しながら進化をしてきた。危険な世界で生きているから進化してきたのである。動物園の檻の中では獣は腹を出して寝るようになるというが、そんな状態で自然界に戻ったとすれば彼らは死んでしまうだろう。動物園では命の本質は学ぶことができず、いわば彼らは「命の袋小路に迷い込んだあわれな生き物」たちである。<br /><br />

私たち人間はそんなふうになっていないだろうか。<br /><br />平和を求めるあまりに争いを避けていないだろうか。<br /><br />平和も争いも同じように必要なものである。そして、本気で相手と向き合わなければ分からないことも世の中にはたくさんある。<br /><br />政府は国民から逃げており、国民も政府から逃げている、これが現在の世界である。<br /><br />しかし江戸時代の人々は、幕府と自分を一体的なものとして感じていた。たしかに幕府はめちゃくちゃなことをして人々を呆れさせたり失望させたりすることもあったろうが、いざ災害が起きれば家を建ててくれるというような、太っ腹な男気をみせてくれた。だから幕府という為政者に人々は従っていたのだろう。それでこそ税金を払う価値があるというものである。<br /><br />

しかしいまの世界では税金はただの取られ損だ。<br /><br />税金のほかに保険に入らなければ命の安全は保障されず、税金と保険に入っていても壊れた家は誰も直してくれない。これではいったいなんのために税金を払っているのか分からない。<br /><br />お金に目が眩んでいる人々は、悪魔に魂を買われているようなものだ。<br /><br />悪魔はほくそ笑んでいるだろう。「人類は簡単に買収できた」と喜んでいるだろう。<br /><br />たしかに人類は簡単に買収されてしまう。<br /><br />それは人類の弱さであり甘さである。<br /><br />しかしこれからはそんな弱さと甘さと戦っていかなければならないのだろうと思う。それはまさしく「聖戦」である。シリアを攻撃するのは聖戦ではない。それはただの戦争ごっこだ。本当の聖戦とは心の中の戦いである。人類はその事実を認めることができなくて絶えず外側と争い続けてきた。<br /><br />

人間は本当のことから目を逸らすという特徴を持っている。<br /><br />極論すればそれは死を恐れる心と同一のものだ。<br /><br />しかし死の中に生があり生の中に死がある。生きよう生きようともがいていると沈んでいくが、諦めてみたらあっさり海面に浮いたというようなものである。そこには死の向こうの生がある。諦めの向こうに、二度と見ることはないと思っていた輝かしい青空があるのである。<br /><br />死を恐れるのではなく死を超えていくのである。<br /><br />

ここから先は

1,610字

以前、他のところで書いていた記事の再録です。 まだ記事数が少ないです。少しずつ追加していく予定です。 (このマガジンでは、30本程度の記事…

☆⌒Y⌒Y⌒Y⌒ヾ(o◕ฺω◕ฺ)ノ ヒャッホーゥ♫