万能人レオナルド・ダ・ヴィンチのお仕事リスト
万能の天才として知られる、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
彼はいったい、何をもって万能と呼ばれているのでしょうか。
ルネサンス期の画家は職人と考えられおり、建築や舞台劇の小道具作りにも参加させられ、ダ・ヴィンチもさまざまな仕事を行っていました。
今回は、多岐にわたる彼の仕事の内容を、一覧にしてみたいと思います。
①床掃除や筆洗いの雑用(工房での修行時代)
ダ・ヴィンチが工房で修行を開始したのは14歳のとき。
当時最高の工房の一つと評価が高かったヴェロッキオの工房に入ります。
ヴェロッキオは絵よりも彫刻が得意で、成長したダ・ヴィンチに絵の注文を任せていました。
ちなみにヴェロッキオは仕事が遅いことで有名で、この職業癖をダ・ヴィンチは師から受け継ぎました。
ダ・ヴィンチの修行時代に関しては資料がのこっていませんが、当時の工房の弟子たちと同じようにダ・ヴィンチも修行していたと考えられています。
当時の工房の弟子たちは、床掃除、筆洗いなどの雑用係、素描を通常1〜2年間おこない、その後助手として顔料や筆、キャンバスなどの材料に慣れ、実際に彩色を4〜6年にわたって修行していましたそうです。
助手の期間が終わると晴れて親方として独立することができました。
②絵画(宗教画、人物画)
ダ・ヴィンチの仕事のなかで最も著名な功績は絵画でしょう。
有名な『最後の晩餐』をはじめ、『受胎告知』などの作品を残しました。
ちなみに、これらの作品は依頼を受けて制作したものですが、ダ・ヴィンチの代表作『モナリザ』は、依頼を受けて作成したものではありません。
『モナリザ』はダ・ヴィンチが死ぬまで手元にもっており、手元に置いていた期間はなんと16年にもおよびます。
ダ・ヴィンチは新しい発見や表現方法を思いつくたびに『モナリザ』に向かい合い、絵を徐々にアップデートしていった個人的な作品といえます。
③彫刻
ダ・ヴィンチの彫刻は残念ながら現在残されておりませんが、彫刻のプロジェクトに携わっていたのは確かです。
なぜ現在残っていないかというと、戦争によって材料が調達できずに途中で断念せざるをえなかったから。
当時作成していたのは騎馬像で、木の模型はできていました。
しかしその模型も、フランス軍に弓の練習の的に使われ、破壊されてしまいます。
④演劇プロデューサー
ダ・ヴィンチが最初に名を上げたのは画家としてではなく、実は演劇プロデューサーとして。
当時「演劇」は、国の威勢を示すためや、権力者同士の結婚式のためのイベントでした。
ダ・ヴィンチが担当したのは、衣装のデザインや小道具、舞台装置の制作、特殊効果などをはじめとする「舞台の演出」。
ダ・ヴィンチのノートに残された「世界初のヘリコプター」といわれるものも、実は舞台用の演出道具だったと考えられています。
演劇に携わった経験は、レオナルドの芸術と技術の探究の両方を刺激することになりました。
また、イベントである以上、絶対的な締め切りがあるので、この期間に空想を具現化する能力を身につけることができましたと考えられています。
⑤文芸エンターテイナー
当時の権力者に取り入るために、ダ・ヴィンチは宮廷での「出し物」を担当しました。
現代から見ると不思議な感じがしますが、当時の宮廷の出し物として人気があったのは、どうぶつ寓話やナゾナゾ。
どうぶつ寓話とは、登場するのはどうぶつで、教訓や風刺を含んだ小ばなしです。
それらはダ・ヴィンチのノートにも残されており、岩波文庫の下記の本で、我々も知ることができます。
また、どうぶつ寓話やナゾナゾ以外にも、巨人と天変地異についての短編ファンタジー小説も残されており、これらは演劇用のシナリオではないかと推測されています。
⑥音楽家
意外かもしれませんが、ダ・ヴィンチは優れた演奏家かつ歌手で、彼が30歳のとき、フィレンツェからミラノへ「音楽家」として移り住みました。
当時の状況を簡単に説明すると、各イタリアの都市は、それぞれ独立した国のような状態で、洗練された文化を持ったフィレンツェは、芸術家を他の都市に派遣することで、他の都市と友好的な関係をたもちました。
ダ・ヴィンチも、フィレンツェから派遣されたうちの1人で、肩書きは「画家」ではなく「音楽家」。
ダ・ヴィンチが演奏した楽器はどんなものだったかというと、「リラ・ダ・ブラッジョ」と呼ばれる楽器でした。
これは現代のヴァイオリンやヴィオラに近い楽器で、7つの弦がついています。
YouTubeで「lira da braccio」と検索すると、どんな楽器かを見ることができます。
ダ・ヴィンチが演奏したのはどんな曲かというと、即興曲でした。
当時の音楽は即興音楽だったため、残念ながら楽譜は残されていません。
ダ・ヴィンチは即興詩もつけて歌っていたようです。
歌の内容は古典的なペトラルカの恋愛詩から、気の利いた自作の詩までとレパートリーは幅広く、フィレンツェではコンテストで優勝したことも。
見事な歌声で王子たちを喜ばせたと記録に残っていいます。
⑦地図製作
ダ・ヴィンチが生きた時代は、国同士の争いが絶えず、戦いの情報として、正確な「地図」はとても貴重なものでした。
しかし、当時の主要な地図といえば、伝説の土地や神話上の怪物が登場し、遠近感や縮尺が、実際の地形とかけ離れていたものがほとんど。
そんな「地図」に視覚的な革命をもたらしたのがダ・ヴィンチです。
ダ・ヴィンチは人生の一時期、悪名高い「チェーザレ・ボルジア」に軍事技師として仕えており、そのさいに地図を制作しました。
その地図が1502年に作成された「イーモラの地図」です。
この地図は、現在も使えるといわれるほど、航空写真もない時代にあたかもグーグルマップを利用したような正確さで描かれた地図で、美しさをもかねそなえています。
現実をありのままにとらえようと観察を重視するダ・ヴィンチは、幾何学とコンパスを使って「イーモラの地図」を生み出しました。
⑧兵器デザイナー
ダ・ヴィンチがミラノでパトロンを得るために書いた「履歴書」はあまりにも有名です。
その理由は、彼が画家ではなく、軍事技術のプロとして自身を売り込んでいたから。
当時は国同士の争いが絶えなかったため、軍事技術者はとても需要がありました。
実際ダ・ヴィンチの描いた兵器は、実用的というより空想的でしたが、完全なはったりではありませんでした。
軍事技術の本を読み、猛勉強したようです。
ダ・ヴィンチがデザインしたものは、大砲、分解式大砲、連射式大砲、回転式大砲、戦闘馬車、装甲車などなど。
そのほかにも、川の流れを変えて敵国に損害を与えるための運河採掘クレーンや、要塞のデザインも残されています。
⑨建築家
ダ・ヴィンチの素描には、教会のデザインに関するものが多数残されています。
ミラノ大聖堂のドームのコンペにも参加しました。
残念ながら彼の描いた建築の設計案はどれも実現しませんでしたが、建築のアドバイザーとして権力者に呼ばれたり、フランスシャンボール城の螺旋階段では、彼の発想が多く取り入れられたと伝えられています。
⑩インテリアデザイナー
ダ・ヴィンチは部屋の内装も担当しました。
それがミラノのスフォルツェスコ城内にある「アッセの間」です。
まるで部屋全体を巨大な樹木で覆われているような内装で、天井には葉と枝、そして幹が描かれ、壁には根が描かれています。
(おまけ①)健康アドバイザー
ダ・ヴィンチは、彼のパトロンの妻に対して、風呂の最適な支度方法をアドバイスしたと記録に残っています。
その内容は「熱湯三に対して冷水四」とのこと。
当時の人々は「ペスト」に怯えており、街自体も下水道の整備が整っていなかったため不衛生な環境で生活していました。
それゆえに、健康のための教訓はとても重要で、ダ・ヴィンチ自身も健康に関しての本を所持していました。
といっても現代でも健康に関しての情報は次から次へとでてくるので、どの時代にも、人間は変わらないことを実感します。
(おまけ②)ダ・ヴィンチのノート
ダ・ヴィンチの没後なので、仕事とはいえないですが、ダ・ヴィンチのノートは後世の芸術家にとっては良い教材になり、現代ではコレクターの間で高額取引されています。
たとえば1994年、マイクロソフト創業者ビル・ゲイツがダ・ヴィンチの「レスター手稿」と呼ばれるノートを落札しました。
落札額は30,802,500ドル。
当時の相場が1ドル当たり97.5円だったため、日本円にすると約30億です。
おわりに
華やかなイメージのあるルネサンスの巨匠ダ・ヴィンチも、なんと30代後半まで生活に苦しんでいました。
それはそれは、借金をするほどに。
その一番の理由は、「頼まれた仕事を、納期に納めることが苦手」だったからです。
彼は完璧主義だったため、納得ができるまでこだわっており、なおかつ、好奇心が人一倍強いため、どんどん別のことに取り組みはじめてしまうからです。
彼がお金に不自由することなく暮らせるようになったのは晩年、隣国のフランス王に迎えられてからでした。
今回の記事では、彼がこなした仕事をのリストをあげてみましたが、まさに万能人にふさわしい内容に驚かされます。
生きていた時代は違いますが、一つの会社で定年まで働く価値観がまだ残る日本において、別の価値観を教えてくれました。
ダ・ヴィンチの生涯について、うまくまとめてあり、一番読みやすいのは、以下の本で、今回の仕事リストもこの本を参考にしました。
著者はウォルター・アイザックソンで、彼はスティーブ・ジョブズに直々に自伝を書くように依頼され、ベストセラー『スティーブ・ジョブズ』を書いた人です。