木下光生『貧困と自己責任の近世日本史』(人文書院、2017年)「序章」より

著者をして、『貧困と自己責任の近世日本史』と題する本書の執筆へと駆り立たしめているのは、現代日本社会に対する怒りである。二一世紀日本は、なぜ、かほどまでに生活困窮者の公的救済に冷たい社会となり、異常なまでに「自己責任」を追及する社会となってしまったのか。それを、近世日本の村社会を基点として、歴史的に考察してみよう、というのが本書を貫く問題意識である。

一九五〇年に制定された(新)生活保護法にもとづく現在の生活保護制度は、日本国憲法第二五条で謳われる「健康で文化的な最低限度の生活」を、国の責任として、全国民に対して無差別平等に保証したものである。法の原理としては、ほぼ完璧に近いわけであるが、その実態はというと、多く見積もっても要保護世帯の二割程度しか捕捉できておらず、支給される保護費も「健康で文化的」どころか、「日常生活で寝起きするのに必要な程度の栄養充足」ーつまりは、息をひそんで生きる程度の生活水準ーを保証するものでしかない。それでいて人びとの関心は、全受給件数のたかだか一~ニ%、支給額でみれば一%にも満たないような「不正」受給の事例にすぐに向けられ、二〇一三年に兵庫県小野市で制定された「小野市福祉給付制度適正化条例」のごとく、官民あげて受給者の日常生活を監視することに躍起となり、受給者を「努力不足、怠け者」扱いする発想はあとを絶たない。そのため、本来ならば生活保護を受給してしかるべき人であっても、受給を「恥」とみて生活保護申請に二の足を踏み、結局貧困状態から抜け出せないでいる。加えて、生活保護費を抑制しようとする行政の「水際作戦」によって、この二一世紀日本にあって、路上ではなく、自宅のなかで(以上6文字傍点ー引用者)餓死する事例すら発生している。これらの現象に共通しているのは、貧困の公的救済に対して異様に冷たく、貧困をもたらす原因として極度に自己責任を重視する、という社会全体の姿勢であろう。

このような冷たさは、すでに先行研究でも指摘されているように、国際的にみて抜きん出ている。たとえば、二〇〇七年に実施された国際世論調査 The Pew Global Attitudes Project 2007 Survey によれば、「国家ないし政府には、自活できない貧困者を救済する責任がある」という質問に対し、日本は、「絶対賛成 completely agree」一五%、「ほぼ賛成 mostly agree」四四%、あわせて五九%と、賛成回答率としては調査対象国四七ヵ国中、最低の数字をはじき出している。同じく二〇〇六年の国際アンケートISSP(International Social Survey Programme)でも、「収入が少ない家庭の大学生に経済的援助を与えること」を「政府の責任」とみなす率が、日本では二割強、「どちらかと言えば政府の責任」をあわせても六割に満たず、これまた調査参加国三三ヵ国中、最低の数値をあらわしている。さあらに井出英策によれば、現代日本の税負担率は、いわゆる先進国のなかでも最低水準にあるにもかかわらず、人びとの「痛税感」だけは高く、その一方で、他者に対する信頼度(社会的信頼度)は、先進諸国のなかでも最低に位置するという。普段、納税の見返りを実感できず、他者も信用できない人びとが、税金を用いて見ず知らずの人を救うことに対して、肯定的な態度をとるはずがあるまい。

このように貧困の公的救済に対し、日本社会が世界的にみて突出した冷たさを示し、強烈な自己責任観を内面化するようになったのは、一体いつ頃のことなのか。「一億総中流」の幻想が崩壊して、「新自由主義」的な風潮がはびこるようになったといわれる、この二〇年ほどの新しい事態なのか。あるいは、前近代に培われた「村落の相互扶助」が期待できなくなって、人びとが「自らの刻苦と才覚だけを頼りに生活していくほか」なくなったという、一九世紀後半以降の近代的な現象なのか。はたまた、もっと根深い歴史的伝統が潜んでいるのか。本書は、この三つ目の立場にたつものであり、貧困救済に対する現代日本社会の向き合い方を歴史的に解く鍵は、近世日本の村社会にあるのではないかと仮定していく。(中略)

貧困の歴史研究に取り組む際、なぜ、いかにも貧困が社会問題化しそうな都市ではなく、あえて村を選ぶのか。現在の貧困研究が、どちらかといえば村というよりも、都市化された社会のなかで顕在化していることをふまえると、都市んびおける貧困史を追究した方が、現代的要請に応え得るかにもみえる。(中略)

だがそれでもなお、本書では「村の貧困史」にこだわっていきたい。近世日本社会で人口の圧倒的多数を占めていた村人の貧困をあつかった方が、社会全体の特徴をあぶり出せる、という単純な理由もそこにはある。しかしそれ以上に、非人やスラム、都市下層といった「わかりやすい」問題ではなく、一見わかりやすそうで、実はそうでもない村の貧困の方が、はるかに貧困の歴史にまとわりつく複雑さに追っていけるのではないか、そしてその複雑さにこそ、現代日本社会が抱える「病巣」の歴史的背景を探る鍵が潜んでいるのではないかという想定が、都市ではなく村を選択させる大きな要因となっている。助け合いの精神が息づいているはずの村社会で、なにゆえ一家総出の夜逃げや、流浪的な物乞いが生じ、なにゆえ村の救済費を受給すると厳しい社会的制裁が待ち受けているのか(第四~六・八章)。村のなかで大赤字の世帯が潰れない一方で、なにゆえ健全経営の世帯が破産してしまうのか(第三章)。近世史側では、すでに一九九〇年代半ばには、百姓の「貧しさ」を強調しすぎることへの批判が出されながらも(第一章)、なにゆえ近現代史側では、「戦前から戦後にかけて日本の農村に多数(以上二文字傍点ー引用者)存在した「貧農層」」(傍点引用者)が、「基本的に消失した」のは一九六〇年代の終わり、という歴史像が二〇〇〇年代に入ってからも提示されてしまうのか。(中略)

だが、それでもあえて近世という時代に注視するのは、次のような理由による。すなわち、生活困窮者がいた場合、どこまでを社会の公的責任として彼らに救いの手をさしのべ、どこからを自己責任として突き放すのかという、まさしく現代的課題の根幹に位置づく事柄を、実は近世の村社会もまた、一七世紀以降、延々と悩み続けていたからである(第五章)。村の自治(村請)を通して貧困救済に向き合うなかで、近世の村人たちがみせた苦悩とせめぎ合い、そしてそこで培われた試行錯誤ー受給者に対する制裁もその一環ーこそ、その後の日本社会を大きく規定していくことになるのではないか。(中略)

貧困とは、「戦中・戦後の喰うや喰わずの時代と比べれば、今の時代の貧困など大したことはない」、「バングラデシュの最貧層と比べれば、日本の貧困など大したことはない」などといった具合に、たえず過去や他地域(国)との比較に晒される運命にある。(中略)

だが、この手の「過去との比較」論で注意すべきは、議論が堂々巡りになりかねず、結果として、各時代の貧困をめぐる深刻さに目をつぶることになりかねない、という点である。江戸時代より今の方がまし、ゆえに今の貧困は大したことはない、と言っているに等しいのであり、昔と比べれば今の方がましという歴史観では、なぜそのましになっているはずの二一世紀日本にあって自宅内餓死が生じてしまうのか、まったく議論できなくなるであろう(せいぜい、豊かな日本における特殊事例、という論法で逃げるほかない)。近世日本の貧困史をあつかう本書で重視するのは、近世は前後の時代(もしくは他国)と比べて、貧困がましだったのか否か、あるいは貧農が多かったのか否か、といった不毛な議論ではなく、生活が苦しくなった人に対し、社会はどう向き合っていたのか、その歴史的特質を追究する視角である。そうした発想にたつことで、近世の村民生活を一面的に「貧しい」とみなさないのと同様、二一世紀の自宅内餓死を例外視しないような歴史観ー近世村民を「貧しい」と決めつけるのも、二一世紀の餓死を特殊視するのも、いずれも「今の日本の貧困は大したことはない」という認識につながるーを鍛え上げていきたい。(中略)

また、個別具体的な個を救済するということは、誰が救済に値する者で、誰がそうでないのか、その選別と排除をおこなうことも意味する。貧困研究では、こうした救済対象者の選別と排除を、「選別主義」あるいは「制限主義」と呼んでおり(英語ではselectivismないしはtargetism)、「普遍主義universalism」的な政策との関係が、たえず議論の的となっている。そのような個別具体的な個に対する救済と制限主義は、日本史の文脈では、どのように登場し、展開していくのか。(下略)

いいなと思ったら応援しよう!