栗原康『村に火をつけ、白痴になれー伊藤野枝伝』より
(…)野枝の人生の軌跡をおっていくが、あらかじめその特徴をひとことでまとめておくとこうである。わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった。そして、それがもろに結婚制度とぶつかることになる。(…)
もしかしたら、これを真実の愛をもとめた結果だというひともいるかもしれないが、そんなきれいなものではなかった。わがままだったのである。だいたい真実の愛がどうこうというひとは、カップルの理想みたいなものをもっていて、その実現のために献身的になろうとするものだ。愛とは、ふたりでそうしていきましょうと誓いをたてることであり、相手がそれをまもらなければ、法的手段にうったえたり、こっちが不倫をしても世間の同情を買うことができると考えられている。でも、野枝はそういうんじゃなかった。そもそも、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないという愛のかたちなんてないとおもっていた。愛の誓いだのなんだのと、そんなのかわしたとしても、あくまで口先だけのことであって、はじめからまもるつもりなんてさらさらなかったのである。見合い結婚だけではない。好きな相手との結婚でも、自由恋愛でも、かわした約束をまもらない。野枝のあたまにあるのは、率直にこれだけである。もっとしりたい、もっとかきたい、もっとセックスがしたい。ほんとうに、これだけで突っ走っている。これじゃちょっとものたりない、キュウクツだとおもったら、いつでもすべてふり捨てて、あたらしい生きかたをつかみとる。あたかも、それがあたりまえのことであるかのように。というか、生きとし生けるものにとって、そういう衝動というか、やりたいとおもったことをおもうぞんぶんやる以上に、大切なことなんてないとおもっていたのだろう。
たぶん、野枝が故郷で妖怪みたいにいわれていたのは、そのためだ。およそ人間社会というものは、約束のつみかさねによってなりたっている。ああしてもらうかわりに、こうしてあげる。やぶったら罰をうけるし、まもればいいねとほめそやされる。そして、その社会の土台になっているのが結婚だ。愛を誓い、家庭をつくる。それが人間らしさのあかしであるかのようにみなされて。妻として夫をささえ、子どもをそだてる。みんなそうしてほめられて、しだいにそうしないことがゆるされなくなってくる。女だから、妻だから、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないと。どんなにイヤでもつらくても、たえることが人間らしさだとおもいこんで。でも、野枝はそんな約束、はなからまもろうとしなかった。いやだ、ものたりない、キュウクツだと、ただそれだけの理由で。それがおばあさんをして、淫乱女といわしめたのである。人間じゃない、気持ちわるいと。
実は、保守的な人たちばかりではなくて、女性の地位向上をもとめる人たちだって、そういう約束をおもんじている。よりよい社会を想定し、それにちかづくこと。いま男とかわしている約束は不平等だ。それを改善しましょう、男との政治的、経済的平等をはかりましょう、女の、主婦の役割をもっと尊重してもらいましょうと。いまだったら、ジェンダーということばがもちいられるだろうか。社会的な性。この社会で、女が男よりも低い立場におかれているのは、それぞれの性の本質によるものではない。社会的にそうさせられてきたからであり、約束のつみかさねによって、そうさせられてきたのである。だから、あたらしい約束をかわすことによって、それを改善することができるのだと。
でも、野枝にそんな発想はありはしない。かの女は、素で約束そのものを破棄しようとしていた。ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないというきまりごとなんて存在しない。それはどんなに良心的にかわされたものであったとしても、ひとの生きかたを固定化し、生きづらさを増すことにしかならないからだ。平等になって男のような女になることも、女らしい女になることも、めんどうくさい。けっきょく、よりよい社会なんてないのである。約束をかわして生きるということは、なにかのために生かされているのとおなじことだ。やりたいことだけやって生きていきたい。ただ本がよみたい、ただ文章がかきたい、ただ恋がしたい、ただセックスがしたい。もっとたのしく、もっとわがままに。ぜんぶひっくるめて、もっともっとそうさせてくれる男がいるならば、うばって抱いていっしょに生きる。不倫上等、淫乱好し。それが人間らしくないといわれるならば、妖怪にでもなんにでもなってやる。欲望全開だ。宣言しよう。もはやジェンダーはない、あるのはセックスそれだけだ。…
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古代から、結婚制度とは奴隷制のことであった。女は男にとらえられ、男の所有物としてあつかわれる。女はもっともつかいがってのよい奴隷であり、性的なことから家事、育児までふくめて、男のために奉仕する存在であるとみなされてきた。とうぜん奴隷であるから、家畜とおなじように、物として、商品として交換される。尺度になるのは、どれだけ男のいうことをきけたのか。それが女の価値といわれ、また妻の役割であるといわれるようになった。男は主人で、女は奴隷。
夫の役割は、おまえらはたらけと、妻にムチをうつことであり、妻の役割は、それにだまってしたがうということだ。というか、だまっているどころではない。はじめはさからったら殺されるとか、たたかれるという恐怖があったからしたがっていたはずなのに、奴隷としてあつかわれることになれてしまうと、女たちはよき妻であることによろこびをおぼえ、みずからすすんで、ムチをうたれてしまう。ああ、ご主人様、いたいです、ありがとうと。野枝は大杉のことばを借りて、これを女たちの奴隷根性とよんでいる。
近代にはいっても、このことにかわりはない。男女関係は、形式的に平等だといわれているが、そんなのウソっぱちだ。根っこにあるのは、奴隷制。ひとたび家庭がきずかれると、男女のあいだには夫と妻という役割がもうけられ、あきらかに不平等な関係がしいられる。妻は夫にやしなってもらい、そのみかえりに夫の世話をしなくてはならない。これ、ようするに、夫にやしなってもらわなければ、生きていけない、死んでしまうということだ。だから、なにをされても夫にしたがってしまう、性的奴隷にだってなってしまう。もちろん、そうおもっていたらやっていけない。だから、やっぱりでてくる奴隷根性。きょうからわたし、まっとうな妻になる。せっせ、せっせとまっとうな奴隷になる。
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じゃあ、やっぱり資本主義的な生活様式のほうがいいのかというと、そんなわけはない。資本主義もふくめて、ひとのふるまいにこれが標準だという尺度をもうけて、それ以外のものを排除する「社会」、あるいは「秩序」が問題なのである。もしも田舎の村にも、この「社会」があるのであれば、あらゆる手をつくしてぶちこわさなくてはならない。自殺した先生や白痴の母は、自殺という行為をつうじて、自分の身を自分で処する、自分のことは自分できめるという感覚をとりもどそうとしていた。彦七は、この「社会」に火をはなつことで、すべてをなきものに、ゼロにひきもどそうとしていた。野枝は、こういわんとしていたのだろう。みならわなくてはいけない。村に火をつけ、白痴になれ。
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政府の番犬どもよ、やれるものならやってみやがれ。そのかわり、女たちの気性をわすれるな。たとえつっぷし、たおれてもなんどでもはいあがってやる。いつだって、二倍返し、三倍返し、四倍返しだ。牢獄にぶちこまれようと、絞首台にのぼらされようとかまうものか。ひとたび激情にかられれば、なんだってやってやる。かならず大事をなしてやるんだ。女をなめんな、わすれんなと。もちろん、これは権力にたいしてツバをはきかけたばかりじゃない。女性たちにたいしても、これで沈黙してはダメだ、もっとやるぞ、クビをつるされたってかまわない、その覚悟でやってやろうじゃないかとハッパををかけているのである。とんでもない。