見出し画像

普遍性に感動しながら嘆く 『Tracy Chapman』 TRACY CHAPMAN

2024年の音楽ニュースの中で嬉しかったことのひとつが、トレイシー・チャップマンが公の場に出てきて歌ったことです。トレイシーの “Fast Car” をカバーしてヒットさせたカントリー歌手のルーク・コムズと一緒に、第66回グラミー賞のステージに登場したのです。

まだステージが暗い中、トレイシーらしき人が立っていることがわかり、聴衆が「あれ?本物じゃない?トレイシー本人なんじゃない?!」という感じでざわめき始め、ライトが当たり本人が歌い出したときの盛り上がりは最高です。この10年ほど、人前で歌っていなかったトレイシーがステージに立っていることの価値を理解したうえでの歓声に聞こえて、そのことにも感動します。

独特の憂いを帯びながら揺れる歌声は悲しくも優しく、とてつもない美しさとなって響き渡ったようで、会場はスタンディングオベーション。大きな反響を呼んだことがうれしかったです。

トレイシー・チャップマンは1988年に1stアルバム『Tracy Chapman』をリリース。時は80年代、まだまだキラキラした曲が多かったですから、シングル “Fast Car” を始めて聴いた時の衝撃はかなりのものでした。「なにこれ!超暗い!」と引いたのです。

ところが何度か聴くにつれて、その歌に引き込まれていきました。そして「これは一体、何を歌っているのか?速い車がどうしたっていうんだ?」と興味を持つようになったのです。

その歌詞は閉塞感ややるせなさでいっぱいでした。トレイシーは当時の米国社会における貧困家庭(その多くは黒人家庭だったでしょう)を念頭にこの歌詞を書いたのではないかと想像しますが、現代においてその対象はひたすら拡大しているように感じます。この時代にルーク・コムズのカバーがヒットしたのは、彼の歌唱の素晴らしさはもちろんですが、この曲が持つ普遍的な力が証明されたのだと思います。

その普遍性には心底感動しますが、それはつまりあの頃のまま、物事は良くなっていないということにもなります。薬物問題は深刻化し、むしろより悪化しているとも言えそうです。トレイシーもきっと嘆いていることでしょう。

この日本でも、ヒットしていたあの頃よりも「失われた30年」を経た現在の方がより大きな意味を持つ曲になってしまった気がします。将来に希望を見出せない状況で、違う誰かになれることを願って “be someone, be someone” と繰り返されるこの曲が、自分のことになったのです。

本作が素晴らしいのはこの “Fast Car” だけではないところです。せつなさの極み “Baby Can I Hold You” や、アカペラで「昨夜、叫び声を聞いた。警察はいつも遅れて来る」と歌われる “Behind The Wall” の衝撃。

全11曲は人種差別や不平等などをテーマにしながら、とてもデビューアルバムとは思えない完成度で展開されます。これらの曲は彼女が24歳までに書いたものということになるのですが、そのいくらかでも理解できたのはおじさんになってからでした。中学生の頃はもちろんのこと、20代前半の私なんて平和ボケした生意気な若造で、これらの歌の何たるかなど全く理解していませんでした。トレイシー、人間の出来が違い過ぎる。

そして、トレイシーは本作に限らずどのアルバムも素晴らしいですが、今聴くなら『Greatest Hits』がよいと思います。“Subcity” や “Crossroads” も収録されてますし、申し分のないベスト盤です。

グラミーでのステージを機に新しい曲を出す気になってくれればと願いますし、その気になっても不思議じゃないくらいの歓迎ぶりだったと思います。現時点での最新作は2008年の『Our Bright Future』となっていて、もうすぐ20年が経ってしまいます。

いいなと思ったら応援しよう!