きもちにひっぱられる
ここはんとし、まいにちのサイクルですぐ「こうするぞ!」の決意だったり、「あ!」とおもったことを見失ってしまう。
ほんとうに、あっさり、「あれ?」となんどもなって、でもなにかの拍子で「そうそう、これこれ!」とおもいだして「よーし!」となって、でもまたすぐに「なんだっけ?」と忘れてしまう。
年の瀬のいま、「おなじこと、なんかいやってるんだ?」とちょっとわらってしまうほど、ほんとうに繰り返ししている。
たぶん、じぶんはじぶんが思っているよりなまけものなことがけっこう関係しているとおもう。それは一旦、隅に置いておく。
すぐに忘れてしまうの、「ちょっと考えものだなあ」とつい50分前まではおもってたとおもうんだけど、さっきじぶんがかいたnoteを読み返していたら、きょうのじぶんと5日前くらいのじぶんが残しておきたいこと、「いっしょじゃん」とおもった。
これが不思議なことで、「あー!こういうこと書いてたわ!」と思い出すというより、「そうそう、こういうことをいいたい!そうそう!」の代弁とか、そういうかんじがとてもある。
ちょっと前のじぶんがいまのじぶんのいちばんの共感者になってくれている。「えー!めっちゃ気合うじゃん!」ていうテンションに数日前かいたものをみるとおもってしまう。
「なにそれ、へんなの」ってかんじだけど、これにけっこう救われたり、ほっとしたり、「なんだあ、だいじょうぶじゃん」と安堵する。
この安堵は、わたしがいまだいじにしたいことが「いまからはじまっていくこと」というより「数日前からの地続き」に感じられるからな気がする。
ぼー、っと「いま、進んでいるのか?」と足踏みしている感覚になってしまいがちなところを「ああ、進んでた、ちゃんと見失ってなかった」と、歩くことをやめずにすむ。
夏頃から「そうだ!noteをできるだけまいにちかいてみよう!」とはじめてみて、よかったな、しっかりとおもう。ちょっと前のじぶんの勢いまかせにみえた思いつきが、かくじつにいまのじぶんをひっぱっていってくれている。
ちょっと前といまが繋がることで、こんなにも前を向きやすくなるし、見失わない工夫ができるものか、とおもう。
そういう風にちっちゃく起きてる魔法、まいにちを繰り返しているとすぐ見失ってしまうけど、みんなみんな、生活をまわしていくということは、ほんとうに魔法使いみたいなことだ。
みんな魔法使い、みんなみんな。みんなのそれぞれの魔法、おしえてよ、のきもち。
残りすくないことしと、これからはじまる来年、いっぱい魔法をきいたり話したり、試したりしながら、いきたいところへたくさんいけるといいね。