〝すぎる〟とかってに飽きるから、だいじょうぶだよ
きょうのくも、サンリオのキャラクターみたいなラブリーさがある。
ただポップにラブリーなだけじゃなくって、ちょっとかなしい、さみしいかんじ。サンリオピューロ ランドにいきたくなるなあ。
なんでも、やり〝すぎる〟ことってよくある。
おいしくってすきだ!とおもったものを、飽きるまで、むしろ嫌いになるまで過剰に食べつづけてしまったりだとか、なんかそういう、ほんとうにいろんなことでよく起こる。
ある程度、いろんなことで〝すぎる〟をして飽きるを回数重ねると、「やりすぎないようにしなきゃ」とちょっと、セーブをしようとする意識がかかる。
まあ、意識しててもできないときはできないんだけど、あんまり、じぶん以外の誰かに多大な迷惑をかけない限り、この〝すぎる〟はセーブしなくていいんじゃないか、とおもってきた。
飽きるのは、〝すぎた〟あとな気がする。
それに飽きたぶん、すっぽりと隙間ができるから他のものに目がいくようになる。そしたらまた、別のものに〝すぎる〟をして、飽きていけばいいとおもう。
飽きっぽい、とかって短所に使われがちだけど、そうかなあ、とおもう。いろんなものに〝すぎる〟をしてきたひとって、おもしろいけどなあ、とおもう。
ひとつのものを、ずっと〝すぎる〟ひともおもしろいし、たくさんのものを〝すぎてきた〟ひともおもしろい。
ひとつのものを100しってるひとと、たくさんのものを65しってるひと、どっちもわたしはだいすき。
65のひとが100のひとの話を聞くことで75くらいになったりするし、100のひとが気がつかなかったところや他のものでの共通項だったりを65のひとは知ってたりする。
それに、なにかにいっときでも熱をもつって、おもしろいことだなあ、とおもう。
ぜんぜん興味ないことでも、熱をもったひとがおもしろいからきいちゃうってこと、けっこうある。みんなはいま、なにに熱を感じるのか、聞きたくなってきた!