なにをやってきたかより、どこにいたか、だれとどんな話をしてきたか
去年のいまごろ、と今年のいまはぜんぜんちがう。
正反対のところにいる。だから、あんまり去年のことに現実味がない。ふしぎなのだ、正反対すぎて。あまりよく、思い出せない。
ひとはだれかと話すとき、そのひとが〝いまなにをやっているか〟だったり、〝これまでなにをしてきたか〟について話したり聞いたりすることが多いと思う。
そうだよなあ、そうだとおもう、まちがってないとおもう。〝なにをやってきたか〟を聞けば、そのひとのわかりやすい部分を辿れる。そのひとが現時点で〝なにができるか〟の目安がつく。
わかりやすいし、必要な情報だ。判断材料になる。そうだね、そうかもしれないね。
でも、〝こと〟だけに捉われるのはちょっと危険だ。
わたしが去年までいたばしょは、できないこともどうにかしてできるようにする。誰かになにかを伝えるときは、〝わかりやすく、端的に、無駄を省く〟。とにかくスピード、スピード、スピード。数、数、数。個人の主観的な感情なんていれるな。手を動かせ、でも考えてないものは持ってくるな。遅い、遅い、遅い。なんでこんなこともできないんだ?
圧に囲まれていた。そこにいくと、いつも思考が停止した。
荒波に揉まれて、成長することはあるとおもう。実際、まったくできなかったパソコンでの作業ができるようになったり、知らなかったいろんな知識がついた。ここにいれば、もっと知らないことをしれるだろうと思った。
でも、こころが持たなかった。
できる〝こと〟は増えていくけど、どんどんこころはすり減った。いつも、ビクビクしてたし、カリカリしてた。会社を辞めるとき、「一時期、顔が灰色だったもんね、、」といわれた。
「そんなことあるかよ?」とわらってしまった。
なんだろう、なんだろうなあ、わたしはにんげんだから、感情もあるしこころもあるし、気分もあるし、そういう不確かな予測できなくてみえないものがたくさん詰まってるよ。そういうものがだいすきだよ。
でも、大抵は仕事になると、〝見通しがつくもの・こと〟や〝わかりやすい結果・実績〟に重心が置かれる。
そうだとおもう、会社を成り立たせるためにはそうだとおもう。おもうけど、そうかな?ともおもう。
就活のときもずっと居心地がわるかった。面接に行くたび〝にんげん診断〟をされてるきぶんだった。
〝なにができるか〟のじぶんの売りどころをたくさん炙り出して、必死にそれを伝えて、たまにウソもついて、おっきい声出して、いつも口角上げて。
なんだろう、なんだろうなあ。もっと、できなくていいよ、とおもう。いまは、AIもすごく発達しているんでしょう。よくわからないけど、どんどんすごくなっていくんでしょう。
にんげんに、できるぶぶんって、なんだとおもう?
そんなに多くないかもしれないけど、たしかにあるもの、あるよ。かならず。
〝こと〟がなにかを決める重点になっていくと、どんどんどんどん、離れてっちゃう気がする。
どんどんどんどん、じぶんじゃなくてもいいような気がする。
だって、その〝こと〟ができれば、代わりはきくんでしょう?
そうじゃないでしょう。にんげんはひとりひとり、絶対的にちがうっていうのは生まれたときから明らかで、きっと息の仕方ですら、微妙にみんなちがう。すごいのに、それだけで。
〝こと〟に重点を置いてると、そんな当たり前にだいじなこと、ぜんぜん粗末にする。〝こと〟ができなかったら、にんげんじゃないのかなって気にさせられる。見えてないのかな、っていう空気、だいきらい。
そうじゃないよ、いま目の前にいる人と話していて、あなたがいまのあなたになるまでの過程を知りたいだけなのに。
小さい頃はなにがすきで、食べれない食べ物もあったけど、いまはすっかり大好物!とか、そんな話をたくさんしようよ。
機械は、たべれなかったもの、たべれたりするのかな。転んだら、血が出て、でもすぐに治ったりするのかな。
そういうすぐに忘れちゃうけど、涙がでるほど笑っちゃう話、ききたいし、はなしたいよ。
じぶんのかけらをじぶんでそんな粗末に扱わないでよ。