転載(5)
老子道徳経
虚用第五という副題がついています。
天地自然の法則性に慈愛の心はない。その様は万物を祭壇に供える飾りの犬と同等に観ているようなものであり、祭礼が終われば棄てられるのも黙ってみているだけである。
聖人にも慈愛の心はない。ただただ民の生長壮老死を俯瞰して観ているだけである。
天地の間は「ふいご」のようなものである。
何もないのにそれ以上縮こまる事はなく、動き出せば吹き出すように動く。
数多の言葉が極まりなく出入りしても、ただただ中庸を守っているだけのようである。
天地自然の法則性は、形で表現すると太極陰陽というスタンダードな基準があり、ここに太過(過剰、膨張)、不及(不足、収縮)という微妙な変動があり、この太過、不及は常に又太極へ戻ろうとしている。ただ、それだけである。
太過すれば不及へ向かい、不及となれば太過へ向かう。結局は大きさを観なければ太極を維持している事は分からない。ここに何かが影響する事はない。
使うときには該当する太極を使い、使わなければその太極から離れる事が肝要である。
これを人の生き方に照らし合わせると、常に主観と客観とを照らし合わせ、自分自身も客観視できる事が聖人と言われる人間性にまで昇華できている状態なのではないだろうか。
ただただ、人の、或いは自分の生まれ出でてから今に至るまで、そしてこの世の人生を終えるまでを俯瞰して見ているだけである。それは、どのような技であれ、物事であれ、生き物であれ同じ法則性の中にある。
聖人になると、心の動きが穏やかになる反面、外からは冷たく感じられるかもしれません。
本来生命を維持する事だけに特化して欲が極小化するからです。
これを考えると、如何に現代の人が心躍らされ、惑わされ、生きているかが分かりますが、それも人生の陰陽消長(しょうちょう、増減)。楽しみながら、少しずつ断捨離できるのが1番です。
【原文】
天地不仁、以萬物為鄒狗。聖人不仁、以百姓鄒狗。
天地之間、其猶槖籥乎。
虚而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。
【書き下し文】
天地不仁なりて、以て萬物鄒狗となす。聖人不仁なりて、以て百姓鄒狗となす。
天地の間、それ猶槖籥のごときか。
虚にして屈せず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮す、中を守るにしかず。
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