カオスに安らぐわたしたち
「混沌(こんとん)、七竅(しちきょう)に死す」
北の国の儵王(しゅくおう)と南の国の忽王(こつおう)が、その中央の国の渾沌王に会いに行ったとき、大変手厚いもてなしを受けた。渾沌王は目も鼻も口もなかったので、儵王と忽王はもてなしのお礼にと一つずつ穴を開けてあげることにした。
一日一穴ずつで、目二つ、耳二つ、鼻二つ、口一つ開け、七日目に渾沌王は死んでしまった。
渾沌とは「混沌(カオス)」のことで、人間の知覚では掴むことのできない命の働きそのものを表している。混沌としたままに調っている自然の姿に、人間の浅はかな分別が介入したことで本来のはたらき自体が失われてしまったというお話である。
(「荘子」応帝王篇より)
私はこの寓話を日常生活でたびたび実感する。たとえば文章を書くとき、自分が思ったこと、感じたこと、発見したことを形にしてまとめたいという欲求に駆られ必死になって書き起こすが、突き詰めて言語化してしまうと、あれ、こんなものだったのかなと思う。なんだかよく分からないけれど、胸の中でドドドっと波のようにどよめいている得体のしれない何か、きらめきみたいなものが一瞬にして消滅してしまったような喪失感に襲われるのだ。
それから今どきの社会の風潮にも思う。多様性の名のもとに、隅から隅まで徹底的にカテゴライズして名前を付けてしまうのはどうなのかとか。それが本当に「生きやすさ」につながっているのかとか。
現実に起こっている事象を自分の頭で考えるより先に、既存の概念の方に当てはめて考える、それは楽だし、そういう指標がある方がお互いに生きやすいというのも分かる。今はすべてが自由意思で、あらゆる問題が個人にのしかかってくるから、必死で自分を守らないといけない。自分自身を規定し、世界を規定してその枠組みの中で安全に生きようとする。
けれど、名前を付けて安心する、分かったつもりになって満足する、そういう点と点の情報だけがどんどん細分化されて、その間に流れている空気が感じられなくなっている気がするのだ。匂いとか音とかそういう「生(なま)」みたいなものが。人間の是非分別とは関係なく今ここに流れ流れている「いのち」のゆらめきが。
とは言え、私自身オタク気質なので好きなことや気になることはとことん追求したがる癖がある。分かったつもりになって一人で悦に入ることもしばしばだ。しかしこれはとんだ勘違いで、曹洞宗開祖・道元禅師のお言葉「参学(さんがく)眼力(がんりき)の及ぶばかりを、見取(けんしゅ)会取(えしゅ)するなり」(『現成公案』)が示すように、人は自分の経験や価値観でしか物事を受け取ることは出来ないのである。すべて分かったと思っても、それはあくまでも自分の持ち合わせ分だけの理解なのだ。謙虚に学び続けることが何を置いても大事である。
そして同時に、道元禅師は「法もし身心(しんじん)に充足すればひとかたはたらずとおぼゆるなり」と仰っている。この前の文は「身心に法いまだ参飽(さんぼう)せざるには法すでに足れりとおぼゆ」とあり、仏法が分かったと思うことが、法が十分に会得できていない時の意識であることが示されている。
人は、認識の限りを尽くして世界を分析分類し、真理を追究し自分のものにしようとする。それでも掴みきれないから苦しくて、分からないという不満をずっと抱えている。しかし、本来真理(法)は「無常」だから人間の分別で規定できるものではないのだ。法はどこまでも大きくどこまでも深く際限なく形がないものであって、小さな自分の懐を満たすものではない。だから、仏道は「ひとかたは足らず」のままでいい。自己がどこまでも「分からないもの」のままに、認識の手放されたところで安らいでいる。その風光に救われるのだ。
認識の一分を積み重ねていくことは大切なことだが、よくよく気を付けないと「混沌さん」という大いなる何かを殺してしまう。そうして、自分で出口を塞いで窮屈さにあえぐのは非常にもったいない。イキイキとしたはたらきがあればこそ、自分も自分を取り巻く環境も輝くのだ。分からないものは分からないままに放っておくことはじつは何事においても肝なのである。