見出し画像

北方領土問題に対する日本政府対応に関する問題点の指摘

 私がBLOG解説やX(旧Twitter)で発言してるのは、時事問題を評論するためであって、何も分からない人間に一から100まで説明することではない。評論や議論というのものは、何も分からない人間に対して行なっても意味はほとんど無い。全て「なぜ?」「根拠は?」から入ってきて、議論がその度に前段階の説明で止まり続け、前へ全く進まないからだ。私がしたいのは「時事評論」であって、「講義」ではない。それを理解して欲しい。

 今回、Xでの私の発言をネタにして、絡んでくる愚か者がいた。本来ならば、相手にしないが、あまりにも愚かで低俗な批判のため、今回に限り、前段階の説明も含めた丁寧な説明をする。こうした前段階が分かっていないと、なぜ、私がこう考えるのか分からないだろうから、長くなるが説明を行なう。


<追記>
 この上記の者は、本質的議論を全くしようとせず、批判に終始し、下らないツィートを繰り返したたため、ブロックして終了させた。人に、多大な時間と労力を使わせたが、当方としては何も得るモノがなかった。何人か、こうした手合いの人物とは巡り会ってるが、彼らが一様に同じような物事の運びになるのは大変興味深いことだ。批判のパターン、展開の仕方、馬鹿にするやり方、かなり似通っていて驚いた。彼らはとにかく内容と離れてほぼ批判だけをし、暇つぶしをしたいだけで意味が無い。建設的意見など全く無い。少しでも変わってくれればと、真面目に対応はしてきたが、今後はしない。時間と労力が本当に無駄になるだけだ。

 単なる感想文であるとの、バカにした反応もあった。TVでよく見られる下らない意見とも言われた。私は求められた意見に対し、誠意を持って、真摯に対応した。通説であるなどとの文言では終わらせず、丁寧に説明をした。前段階の説明が長くなったのも、結論に導き出すためのこと。分かっている物事から分析して結論を出すことを感想文とは言わない。自分の知らない事、よく分らない事、それを認めず知ったかをして上から目線で批判しか出来ない人物は、議論など最初から求めるべきではない。物事を学ぶ姿勢も全くない。SNSの申し子のように、批判することで自分が正しい存在だと大きな勘違いをしてるのである。議論に勝った、負けたなど関係ない。事実の裏付けと、論理的であるかどうか、それだけだ。誠に持って、情けない限りである。

--------------------------------------


北方領土問題に関する直接的詳細は、調べればすぐ分かることなので、説明は省く。


テーマ「北方領土問題に対する日本政府対応に関する問題点の指摘」

■まず、1991年ソ連崩壊時の状況をおさらいしてみよう。

 当時、冷戦時代のあまりにも偏った国防費の支出で、ソ連はモスクワの住民が食糧を買うのすら大変な状況だった。腐敗は蔓延し、経済は破綻状況だった。そこに指導者として表れたのが、ゴルバチョフである。彼は、「ペレストロイカ」や「グラスノスチ」「新思考外交」を行う事により、国民の不満をそらし、国家態勢を変え、それによって国家を立て直そうとした。しかし、それが全て裏目に出てしまった。中途半端な改革による、これまた中途半端な自由は、ソ連邦を構成する各共和国の独立をかえって促してしまった。

 問題となるのは、各共和国との国境線である。現時点で分かっているのは、バルト三国には、今までのやり方を押しつけた。当時のエリツィンもバルト三国側の要求はのまなかった。所が、ウクライナに関しては、特にクリミアに関して「あげちゃえば」との発言が確認されている。しかし、ロシア側の交渉団は条件を付けた。「独立国家共同体内にいるのであれば」と。これが「ベロヴェーシ合意」である。

 ただここら辺は物凄くややこしくなる。ゴルバチョフがこの独立国家共同体構想に異議を唱え、当時の最高会議も否定はしている。従って、「ベロヴェーシ合意」は有効か無効か意見は割れている。私は、無効との意見が大勢を占めているように感じている。そして、当のウクライナも独立国家共同体創設時加盟国ではあるのだが、条約自体には批准していない。また、集団安全保障条約に至っては加盟もしていない。

 当時、ウクライナは独立に関する選挙を実施、圧倒的に独立賛成票が多かった。同様に、当時、クリミアもウクライナに所属するかどうかで投票が行なわれているが、ウクライナ所属への賛成票が多く、ウクライナ所属が決まった経緯がある。今頃になって、ベロヴェーシ合意を盾に、クリミア侵攻など論理的裏付けなどはない。2014年以降、ロシアが侵攻以降に行なわれた住民投票は、報道からすれば、明らかに公正さに欠けるやり方で行なわれており、有効だとは言いがたい。従って、クリミアはウクライナ領土であると考えるのが妥当であろう。

 こうした経緯の説明は、一見、北方領土に関係が全くないように見えて、実は物凄く関係がある。これらの経緯から見ると分かることがある。


①ソ連崩壊の伴い、全てにおいて「混乱していた」

②バルト三国などの欧州側方面では譲歩はしなかったが、ウクライナにはしていた。他の地域の国境線には、記録に残るほどのうるさいことは言っていなかった。

まずこの点を抑えよう。

■次に、エリツィンは北方領土問題をどのように考えていたのか。

 エリツィンは、日本へ来る度に、かなり前向きな話をしていた。北方領土5段階解決論をはじめ、彼は返すこと自体には、反対していなかったように思える。彼が恐れていたのは、ただ返すだけでは、多くの軍人や国民から反発を喰らってしまうこと、それだけだったと思える。経済的にも、日本の援助がとにかく欲しかったのだろう。問題なのは、日本政府はそれにどう答えていたのか・・・だ。

 当時の日本政府の方針は「4島一括返還」。それは間違っていなかった。ただ、柔軟性に欠けた。91年から93年の間に、ゴルバチョフやエリツィンは3度訪日したが、日本の首相は一度も行っていない。つまり、ロシア側のメッセージを上手に受け止められなかったのだ。

 例えば、中国には、経済大国になった後もODAを続けた。今、尖閣問題があるにもかかわらず、現在も優遇的な留学生制度は存続させている。「お金を出して買うと、相手の領土だったと認めてしまうことになる」という意見は分かる。「北方領土は不法占領された、お金を出す謂われはない」、それもよく分る。だが、外交というモノは、硬直的に対応するモノではない。当時、お金を出して買ってしまえば後腐れが一番無かった。また、1991年~93年当時なら価格もそんなに高くなくて済んだろう。直接的なお金ではなくても、ODAでも、ナントカ援助でも、資源共同開発でも、要は、エリツィンのメンツを立てれば良かったのだ。やり方はいくらでもあったはずだ。

にもかかわらず、一番のチャンスを逃した、この責任は大きい。

更に、多角的に考えてみよう。


■アメリカは北方領土問題をどのように考えていたのか。

 旧ソ連の崩壊時、アメリカもまた国防費の支出増に関わる財政赤字で苦しんでいた。だからこそ、ソ連が一番弱まったときに追い込まなかった。深慮遠謀というか、核やミサイルの管理を続けさせたかったし、この機会に軍縮交渉をして、国防費の支出をアメリカ側も抑えたいとの願望があった。当時のアメリカには、軍縮により、世界経済支配を確立させたいグループと、軍需産業を基盤とする国防第一のグループがいてせめぎ合いだった。

 こうした事実を踏まえると、アメリカは北方領土が日本に戻って欲しいと本気で思っているのかどうかは分からない。公式には、1950年代には、北方領土は日本のものであると認めた事にはなっている。

 旧ソ連崩壊時、東欧崩壊時には、諜報機関から流れ出た情報をCIAはかき集めていた事実はある。今調べても、旧ソ連崩壊時を含め、現在に至るまで、この北方領土返還交渉を、アメリカが望んでいない、積極的にアメリカ政府が邪魔をしたという事実は確認出来なかった。


■総論

 1991年~93年の間に、北方領土返還に関して、適切に行動できなかったことは、全て日本政府の責任、強いては与党である自民党に責任と言う事になる。当時、返還を邪魔する外圧もなく、エリツィンも妨害する気は無かったのだから。日本政治の悪い癖「先送り」、または「次世代への先送り」が出てしまった悪例だろう。ロシア首脳が訪日して会談して、何らかの宣言や、会見をしてたことで安心してしまった。それで安心して成果を出したような気になってしまい、止まってしまった。その後、まさか、プーチンのような「大ロシア主義論者」が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。先送りにせず、サッサと平和条約を結ぶ手を考え、実際に行動していたのであれば、北方領土返還はとっくになされていたかも知れない。

 こと、ここに至っては、もはや、北方領土返還など夢のまた夢、絶望的だ。返還の実現は暗礁に大きく乗り上げてしまった。こうした事柄への総括や反省もなく、その後はプーチンには返す気などはなっから全くない事を見抜けず、漫然と交渉を続けていた。

 これは明らかに、政府の失策だったのだ。総括や反省がなければ、また同じ事の繰り返し。時間だけは無為に過ぎていく。せめて、こうした件を反省し、次に生かす外交政策を採って欲しい。それが私の意見だ。

--------------------------------------

<追記>

『旧ソ連は、過去に中立条約を破っており、その系統であるロシアは信用出来ない、金を渡しても返還される保証はない』

『日本が手を尽くせなかったと言うのは、ロシアの陰謀だ、それを言うのは親ロシア派だ』

上記2点指摘があったので、回答しておく。

 1991年旧ソ連崩壊時、全てが混乱していた。当然、ロシアの諜報機関関係も混乱していた。何か、悪巧みをする余裕など無かった。そして、本当にお金が必要だった。だからこそ、この時期、1991年~93年の間に、サッサと金で解決すべき問題だった。取れる手段は、名を捨て実を取る戦略しか無かったのだ。エリツィンが在任中に解決すべき問題だったのだ。信用出来ないと言うことであれば、第三国を仲介させても良かった。やり様はいくらでもあったのである。当時、正確に物事を分析し、きちんと戦略を建てて対応することがほとんど出来ていなかったのだと私は思っています。また、日本はコロコロと政局が動きすぎることも大問題でした。

 次に、この点を指摘すると親ロシアであるという点ですが、全くの誹謗中傷に過ぎません。様々な資料、エリツィンの訪日の度、首脳会談の度の宣言や会見内容からすると、エリツィンと、側近との意見相違はあったようですが、私の印象としては、日本政府側の事情で(政局の流れ含め)、出来なかったのが事実と考えています。結局の所、何かを被っても解決させるという、責任を負うという決断が出来る政治家がいなかったのでしょう。

 「ではどういう戦略をすれば良かったのか」「もっと深い考察をよこせ」などと言われましたが、誰に聞いても、どの専門家に聞いても、私が上記で述べた以上のことは出てこないでしょう。(金銭的対価を払う払わないと言った意見相違はあったにしても)

 あるとするならば、ロシア側の記録ですが、残っていて調べられるとすれば、エリツィン側の資料、最高会議議事録、ロシア極東部の役所に何かあるかぐらいでしょうか。いずれにしろ、それらは公開され許可がなければ見られませんし、仮に公開されていても、公開されているだろう沢山の文書の山の中から、北方領土関連文書だけ抜き出すことは難しいでしょう。それに、素人の私にはロシアまで実際に足を運んで、文書を探して手に入れて翻訳することなど出来ません。どうしても更なる詳細を知りたいのであれば、人に要求せず、自分で行なって下さい。

■参考文献

日本記者クラブ 
「唯一の好機」、92年の日露領土交渉/「秘密提案」書かずに悔恨残る(名越 健郎) 2020年

 https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/35182


■追記分参考文献

産経新聞/外交安保取材/北方領土が近づいた好機、生かせなかった日本/2019/10/16

 https://www.sankei.com/article/20191016-D6K7XWG3L5LSNL75LXX6XB243U/


その他は、私が生きていく中で出会えたメディア、書籍からです。いちいち記録をとっておらず覚えていませんので、記載は出来ません。


※2023年11月に書いた文章の再UPです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?