紫のニューアルバム『TIMELESS』のジャケット・ビジュアルを担当した奥村靫正さんへのインタビュー
取材・text : 音楽評論家 平山雄一
編集:丸山道雄
1. 日本初!? 1stアルバムのジャケットをリメイク
――『TIMELESS』のアルバム・ジャケットはどのように制作されたんですか?
奥村 まずプロデューサー・サイドから、1976年に出た紫の1stアルバム『MURASAKI』のジャケットを基本にして、どこまで今の表現としてリメイクできるか相談を受けたところから始まりました。
――以前のアルバム・ジャケットをリメイクするというのは、あまりないことですよね。
奥村 そうですね。私もこのケースは初めてでした。奇しくも『MURASAKI』のオリジナルのイラストレーションを描いた大西重成さんは昔からよく知っている方で、今は北海道・網走で“シゲチャンランド”という私設美術館の広大な土地で立体的な作品を発表しています。
――すごい偶然ですね! 奥村さんは大西さんとお仕事をなさってたんですか?
奥村 いや、一度もやってないです(笑)。
――じゃあ、呑み仲間っていうことなんですね(笑)。
奥村 そうです、そうです(笑)。でもいろんな話をしましたね。
――音楽の話とか?
奥村 うーん、どうだったかな?
――奥村さんと音楽の関わりは、どのように始まったんですか?
奥村 私自身は学生時代の60年代からいろんなバンドを見てました。ちょうど二十歳になったころ、学生運動で封鎖になった校舎の教室をぶち抜いて定期的にコンサートをやってたんですよ。
バンドを呼んで、確か300円とか500円の入場料で。何回かやってるうちに、うまいバンドを使うとしっかり客が入るっていうのがだんだんわかってきた(笑)。
そういうバンドの中心にいたのが細野晴臣さんだったんですね。“はっぴいえんど”を結成する前の“エイプリルフール”というバンドの頃です。そんな風にしてミュージシャンの知り合いが増えていった。
僕自身は学校を出て仲間と3人でデザイン会社を作った。家具からファッションからあらゆるものの商品企画をやってたんですが、73年のオイルショックでほとんど仕事が止まるような状況になって、音楽の仕事を始めました。
――奥村さんの最初のジャケットの仕事は?
奥村 70年代の初めに「学生街の喫茶店」をヒットさせたグループ“ガロ”です。その後、小坂忠さんの『ありがとう』、高橋幸宏さんの『WILD&MOODY』、坂本龍一さんの『音楽図鑑』、佐野元春さんの『SOMEDAY』などのジャケットやYMOのポスターをデザインしました。
2. リアルに戦争がある時代に、紫が沖縄に存在することが重要
――今回、『MURASAKI』のジャケットを元にして作るにあたって、時代背景はどう考えましたか?
奥村 『MURASAKI』のオリジナルのビジュアルは、戦闘機と原子爆弾がメインになっている。これは70年代の感覚でいうと非常にわかりやすい。アーティスト・パワーが戦闘機であり原子爆弾に通ずるというか。それはそれで当時は成功したと思うんです。
でもそれから数10年経って、今の時代、まさにいろいろ複雑な戦争の事例が出てきた。しかもこれまで紫自体がずっと活動を続けてきている中で、何かアイデアを付け加えないといけないだろうなっていうことは考えました。
――リメイクのイラストをWANTOさんにオーダーしたのは?
奥村 私も描けるし、それなりの人に頼んでもいいんだけど、何か別のファクターでアピールする絵にしたかった。WANTOさんは国外でも国内でもグラフィティ(注:メッセージ性の強いストリート・アート)をやってる方なので、何かアピールできるだろうっていう予測はありました。
――奥村さんはWANTOさんとはたびたび仕事をされてるんですか?
奥村 いや、今回が初めてです。川崎の街を描いた「KAWASAKI NINJA」という展覧会の小さなパンフレットを見て、「あ、この人いいな」と思って今回、お願いしました。今を表現できる人にやってほしかったんです。
――どんな打ち合わせをしたんですか?
奥村 ほとんどお話してないです(笑)。
――それで通じちゃうのって幸せですよね。
奥村 そうですね。ほとんど何も言わなくても「わかりました!」って感じで(笑)。非常に早かったです。オリジナルのジャケットを資料としてお渡しして、私のほうからは「花をこういうふうに描いて欲しい」と伝えました。あれは全部、沖縄の花なんですね。
――今回のビジュアルを最初に見たとき、60年代から70年代にかけての“フラワー・ムーブメント”を思い出しました。しかも『TIMELESS』というタイトルにすごく合っている。
奥村 依頼を受けた時点ではアルバムタイトルが決まってなかった。決まったのはつい最近なのに、僕自身もこのジャケットがすごく合ってると思います(笑)。意外性があっていいんじゃないですか。広告みたいにマーケティングだとかそういうことを考えながら作るんじゃなくてね。
今の音楽の作られ方って、広告が入ったり、先の先まですべて計算づくめでやっていくようになっている。でも昔は何も決まっていない状況から入ってた。スタジオに行ってもまだ何もできてなくて、「コード進行だけはできてます」みたいな(笑)。そんな状況から、何するどうするこうするっていう打ち合わせが始まった。
CD時代になるともう先にテープで音源が送られてきて、極端な例だとテレビCFが決まってて、バンドはこれから探しますっていう(笑)。これだと僕にとっては全然面白くなくて。はじめはCDの仕事をいくつかやったんですけど、やりがいがないなと思ってあまり乗り気じゃなかったです(笑)。
――70年代のジャケット制作はどんな感じだったんですか?
奥村 それほどアーティスティックな状況じゃなかったと思います。っていうのは当時、ジャケットはレコード会社の社内のデザイン室が作っていたんです。いわゆるグループサウンズとか歌謡曲の時代ですね。
――社内デザイン室がある中で、奥村さんはどうやってデザインの仕事を獲得したんですか?
奥村 あれは細野さんの“エープリルフール”のジャケットの時だったと思うんだけど、レコード会社の持っている写真スタジオでメンバー全員の写真を撮ることになって。そうしたら演歌歌手の撮影が長引いて、やっとスタジオに入ったら紫色のグラデーションのバックをそのまま使って撮影してくれって言われて、いくらなんでもそれはないだろうっていうことで断ったことから始まりました。自分たちで写真を撮って。でも3万〜5万ぐらいの予算しかなかった(笑)。ちゃんと予算がついたのは“サディスティック・ミカ・バンド”からですね。
――2000年代に入ると配信みたいな形になって、ますますビジュアルの訴求効果がなくなっていく。今回はアナログ盤も出るのでビジュアルをすごく楽しみにしてました。
奥村 最近はこういうジャケットがないから、発売になってある程度ビジュアルがひとり歩きして、どういうムーブメントが起きるか僕も楽しみにしてます。
――WANTOさんはこのジャケットの仕上がりについて何かおっしゃってましたか?
奥村 いや、まだ見てないんじゃないかな(笑)。ただWANTOさんは沖縄でグラフィティをやってみたいと言ってました。そんなこともできればいいなって。
――その思いには「ラブ&ピース」や「フラワー・ムーブメント」みたいな言葉でくくり切れないものがあると思います。
奥村 そうですね。今、身の回りに現実的なリアリティとして戦争があって、その中で紫みたいなバンドの立ち位置が沖縄にあるっていうのは非常に重要だと僕は思ってます。
――ぜひともWANTOさんには、年末の紫のライブを見に来て欲しいですね。
奥村 誘ってますよ(笑)。紫のメンバーは僕とほとんど同世代です。それもあって今回は僕の中で非常に面白い仕事になりました。
――本日はありがとうございました。
3. 紫 MURASAKI インフォメーション
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