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急速なオンライン化のなかで置き去りにされそうな、言語化されにくいけど大切な授業以外の大学の価値、を考える。

大学=勉強をするところ、というと、正しくはありますが、ほとんどの学生は少し不満気な顔をするのではないでしょうか。クラブやサークル活動であったり、友達との会話であったり、それにゼミの飲み会や大学祭、さまざまな出来事があってこそ、学生たちが期待する“大学”になるからです。

今回のコロナパンデミックで「学びを止めるな」と方々から声が挙がり、大学を含む教育機関の関係者たちが尋常ではない努力をし、その姿がマスコミにもクローズアップされました。でも、実は学び以外についても、なんとか止めずにやっていこうと頑張る学生や学校関係者の姿があり、実はこれはこれですごく大事なことだと思うのです。

こんなことを考えたのは、朝日新聞のこの記事がきっかけでした。記事では、流通科学大学などが取り組むオンラインでのクラブ活動を紹介しています。できることが限られているなかで、何とかして学生生活を続けようとする学生たちの姿は、とても健気でたくましく、ガンバレ!と、自然と応援したくなります。

それで思ったのですが、大学らしさや学風、愛校心というものは、多くの場合、授業時間外で育まれているのではないか。先輩後輩の人間関係のなかで、ゼミの担当教員との雑談のなかで、つまりは人と人とのつながりのなかで、大学らしさは受け継がれ築かれているように思うのです。

コロナの影響により全国でオンライン授業がはじまり、これは何かしらのかたちで、今後も大学教育に残っていくでしょうし、IT技術が発展し授業法が研磨されていくことで、対面とそこまで変わりない知識の伝達ができるようになる可能性は十分にあり得ます。そうなると学生は、希望すれば、通学制の大学であっても通信教育に近いかたちで、学位取得ができるようになるかもしれません。これ自体はとても素晴らしいことではあるのですが、反面、大学とは何か、という問題にぶち当たるような気もします。

これはつまり、この文章の最初に書いた、大学=勉強をするところ……なんだけど、でもそれだけじゃない、という話です。難しいところは、大学の人間関係や環境から得られる知見や生き方に+αを与えるエッセンスというのは、別にテストに出るわけではないので、数値化できないし、自分がそういったものを得ていたのだと気付くのは、卒業してだいぶ経ってからが多いということです。

この価値を勘定に入れないと、大学のオンライン化はさらに進んでいくでしょうし、究極的には大学=高度専門教育のコンテンツ群になるように思います。そうなることのすべてが悪いとは考えませんが、やっぱり大学の勉強以外の部分にも価値があったねと、社会が再認識するような状況になったとき、大学教育の在り方はそれに気づくほど大きく変わっているわけで、もとに戻すことは容易ではないだろうなという気がします。

また、大学授業のオンライン化が進むと、大学固有の文化が希薄になるだろうし、愛校心も育みにくくなるだろうとも思います。良し悪しは置いておいて、学閥というのものが成り立たなくなるかもしれません。あと、大学教育がコンテンツとして捉えられると、市場原理が働き、より安くより良い(と多くの人が思う)ものに厳選されていき、学びの多様性なんてものが消し飛んでしまうかもしれません。

コロナパンデミックによって、学べることの大切さが、とても注目されています。でも、大学の価値や役割はそれだけじゃないはずです。今は学びのオンライン化が劇的に進もうとしている、いわばロケットダッシュの瞬間です。この流れに乗ることも大事ですが、学びだけじゃない大学の価値を、今こそ少し立ち止まって考えてみるべきだ、という気もします。うーん、走りながら考えるしかないですかねぇ。

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