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プロローグ: 不思議な老人との出会い

現在、僕は東京とカリフォルニアとハワイに複数の不動産資産を所有し、賃貸に出して不動産収入を得ています。
現時点における不動産の資産価値は日本円で約10億円前後となっています。
為替に左右されないように、賃料が常に日本円とアメリカドルで毎月入ってくるようにしました。
別に、そんな不動産オーナーなんて、いくらでもいるだろう。と思っている方もいらっしゃるかと思います。
ここでお話ししたい事は、そんな不動産自慢でも何でも無いんです。
僕は、一文無しから30年近くもかかって、やっと今の資産を築き上げました。
今の豊かな暮らしを獲得するまで、常に意識の根底にあって、その考えを絶対に忘れないで生きてきた、「その考え」を、もっと早く知っていれば、もっと早く大きな資産を築ける事が出来た自信があります。「その考え」を、初めて話そうと思います。それによって、多くの方々が、より早く資産形成をし億万長者になって頂きたい、と思っているからです。

1990年、学校を卒業して何年も経っていない僕は一大決心をし、アメリカに移住をすることに決めました。まだインターネットも普及していない頃だったので移住をする為の情報を探すのにも、とても苦労した記憶があります。
多くの書店巡りをして、移住、留学、観光関連の本を買い漁り、情報を得た記憶があります。そしてアメリカの初移住先に選んだ場所は
世界中の観光客が訪れるワイキキを抱える、ハワイ州の中心都市、ホノルルでした。

ホノルルに移住した初めの1ヶ月は、ワイキキビーチの前の安い宿で暮らしました。ユースホステルというのでしょうか。世界中からバックパッカーらしき人たちが長期、短期滞在をしていて、それなりに仲間意識からか、仲良くなっていました。日本の広さで言うと、8畳くらいの部屋に、2段ベッドが2つ設置されています。要するに4人の相部屋です。
寝る時には、パスポートや財布、その他重要な書類などをリュックにまとめて入れて、それを枕にして寝ます。
そうしないと、すぐに盗まれるからです。

その頃のワイキキビーチには、雑誌スタンドが道路のあちこちに有り
無料日本語新聞、無料日本語雑誌が置いてありました。それが現地における情報源の全てだったのです。
ある日、その日本語新聞の求人欄で「日本人観光客向けゴルフツアー ドライバー募集」という募集をしていたゴルフツアー会社に電話をかけ、面接をして頂き、すぐに採用して頂きました。
ハワイ移住をして初の仕事が決まりました。

仕事内容は単純なものでした。朝、お客さんの宿泊ホテルにゴルフ客を迎えに行き、ゴルフ場まで送って降ろし、ラウンドが終わった後に、ゴルフ場に迎えに行き、ホテルへ送る。と言った繰り返しです。
僕は、自分で言うのも何ですが、働き者で、休みの日でもオフィスから頼まれたら出勤し、ゴルフ客の送迎をし、一生懸命働きました。
移住から1ヶ月経った時に、このまま不安定なユースホステル暮らしを続けたくはなかったので、ワイキキに自分の部屋を借りることにしました。
アイランドコロニーというマンションで、1ヶ月の家賃が$380 でした。今でも覚えています。

ゴルフツアー会社に勤めて5年程経過した頃、ある日の朝、ホテルに迎えに行ったお客さんは、70代?80歳前後?の男性でした。
その老人は、安っぽい地味な白いポロシャツを着て、ベージュのショートパンツ、茶色い、これまた安っぽい靴を履いていました。
ゴルフは、年齢が行っても出来るスポーツなので、健康の為にも良いなあと
一人で考えながら、その老人を乗せてゴルフ場まで走っていました。その老人は無口で、ゴルフ場に着くまで、ほとんど会話をしませんでした。

その老人は、山根と名乗っていました。
山根さんをゴルフ場に送り、僕は一旦自宅に戻り、時間を潰して、お昼頃にまたゴルフ場にお迎えに行きました。ゴルフを終えた山根さんを乗せて、ホテルに向かう途中の車の中で、山根さんが話しかけてきました。「日本の地元はどこなの?」と。僕は「実家は鎌倉なんです」と答えました。
山根さんは、「自分は東京生まれで鎌倉にもよく行っているので詳しいよ。」と、なぜか親しみを持った口調で話し始めました。
ゴルフや車、ヨット、趣味の話などで話が盛り上がり、朝の行きの道程は長かったけれど、帰りの車の中での時間はあっという間に過ぎてしまいました。僕は山根さんに名刺を渡し、挨拶をして会社に戻りました。
















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