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Episode 348 指示が歪みを生むのです。

私は幼稚園児のころ、文字が読めることに憧れました。

物語を読むことが大好きだった姉は、時間があると楽しそうに本を開いていたように思います。
その姿に憧れてのことだと思います。
家には親が姉に買い与えた児童文学書がいっぱいありました。
何とかして私も、その本を自分の力で読みたかったのです。

その為に必要なことは文字を覚えることでした。
私は書道教室に通う姉について行きたいとせがんだのです。
同じ団地の敷地内にある書道教室…私がまだ5歳の幼稚園児でも、小2の姉なら行き帰りも面倒を見てくれるし、文字も覚えられるし左利きの矯正にもなる…というあたりが「両親の本音」でしょうね。
一緒に行くことを渋る姉を家族でねじ伏せて「うん」と言わせて、私は書道教室に通うのです。

左利きの矯正も兼ねた「書き方教室」はもちろん鉛筆書きの硬筆で、右手を上手に使えない私は書き方用2B鉛筆の芯をバキバキ折ったのを覚えています。
力加減が分からないのです。
四苦八苦して何とか右手で文字が書けるようになるまでに、かなりの時間を要したと思います。
それでも私は、鉛筆を右手で持つことに不信感は無かったのです。
何故なら、右手で書けるようになると「約束」して書き方教室に来ているから。
そして、どうしても文字を覚えたかったのです。
本を読めるようになることで、姉に追いつきたかったのだと思います。

果たして、この時の「文字を覚えたい」「本を読みたい」が、本当に私のやりたいことだったのか…今でも分かりません。
姉が本を開いている姿は楽しそうに見えました。
それは私が図鑑を眺めているのと同じ類の楽しそうだったように見えました。
私は文字が分かって本が読めれば、姉の楽しそうな姿を私自身で再現できるような気がしていたように思います。

多分…私の楽しいの興味の先に文字や本があったのではなくて、私が図鑑を眺めて楽しいと思うその関係と、姉が本を読んで楽しいと思うその関係の区別がついていなかったのだと思います。
姉が「文字を理解して本を読む=楽しい」なのは、姉の気持ちがあってこそ。
私には姉の気持ちの概念がない
私は「文字を理解して本を読む=楽しい」なのだと思い込む…それ故に文字は理解しなければならないし、本も読まなければならない。
それが理解できれば、私の「図鑑を眺める=楽しい」と同じ快感を本で読むことでも得られるはず…。

幼児期の子どもは「自他の境界線」が緩いのは普通のことなのだと思います。
「あなたにはあなたの楽しいがある」という当たり前のことが分からない。
そういう意味で幼い子が「カオナシ」なのは発達段階として普通の話だと思います。
でもそれは、社会性の獲得によって徐々に解消されていくのです。
親や兄弟、幼稚園の先生やお友だちとの「会話」というコミュニケーションの中から自他の境界線を見出していくということです。

さて、私は言葉を「指示」と理解していたワケです
その結果、お互いの意見をぶつけ合う「会話」は成立しなかったのです。

私よりも「目上の人」である「姉の言う楽しい」という言葉は、「姉の思う楽しい」を指示する言葉だった。
姉の言う楽しいを実現するには、文字を覚えて本を読めるようにしなければならない。
そしてそれは、「自分が楽しい」とは関係なく「楽しい」と認識されるのです。

「言われたことを言葉通りに受け取る」の意味合いは、私の場合…恐らくこれです。
読書は楽しくない…図鑑を眺めていた方がずっと楽しい。
でも、読書は楽しいハズなのです。
だって、目上の人が読書は楽しいというのだから…。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/28

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